第49話:石が、すべて話してくれましたわ——今宵も
荒れ狂う黒曜の心臓を、白手袋の手が、そっと包んだ。
石は、灼けるほど冷たかった。飢えて、悲鳴を上げ、いま当主の命を最後のひと口まで喰らい尽くそうとしている。ノエリアは、その荒ぶる石のいちばん奥へ眼を凝らした。震える声で静かに語りかけながら。
「見せてくださいまし。——あなたが、いちばん深いところに、抱えているものを」
視えたのは、映像ではない。石に染み込んだ五十年分の気配と感情の断片。
*
飢饉の冬。痩せた領民。飢えて死にかけた、幼い使用人の子ら。
その只中で若き当主——先代が、この石の前に膝をつく姿。「家とこの者たちを守りたい。かわりにわたしの心を喰らってくれ」。石は契約を受けた。当主の体温と感情を対価に、家の繁栄を担保する、契約を。
それから、五十年。
石は、喰い続けた。当主の温もりを喜びを怒りを。そして、そのたびに——恐れられた。歴代の当主から、家人から。「あれは視ない方がいい石だ」「触れてはならぬ」「呪われた石だ」と。
誰も石に語りかけなかった。
誰も、石の飢えの正体を視ようとしなかった。
石は五十年——いや、契約を受けたその日から、ただ、独りだった。家を守るためにみなに恐れられ、疎まれ、暗い祭壇に囲われて。役目だけを果たし続けて。飢えていたのは、体温では、なかった。
石が、いちばん飢えていたのは——気づいてもらうこと、だった。
「……そういうことでしたのね」
ノエリアの声が、掠れた。眼の奥が、熱く滲む。けれど、彼女はまばたきひとつでそれを堪えた。今、涙を零せば、眼が曇る。曇った眼では、この石の孤独のいちばん奥までは、視えない。
*
「聞いてくださいまし、黒曜の心臓」
彼女は、荒ぶる石に額を寄せるようにして、語りかけた。
「あなたは五十年、独りでしたわね。家を守るためにみなに恐れられて。喰う石、呪う石と疎まれて。……誰もあなたにごきげんよう、と言わなかった。誰もあなたの飢えの本当の名を視ようとしなかった」
石の軋みがほんの少し緩んだ。荒れ狂う飢えの底の、五十年分の孤独が、初めて、名を呼ばれた。
「でも、もう独りではございませんの」
ノエリアは、はっきりと告げた。
「わたくしが毎朝、工房の石に挨拶をするのをご存知でしょう? ミルカも、真似をいたしますのよ。あの子はあなたにもきっと挨拶をいたしますわ。——石は道具ではございませんの。恐れるものでも、疎むものでもございませんわ。石には、来歴がある。想いが、染みている。あなたにも」
彼女は、白手袋の手にありったけの敬意を込めた。
「対価はもう要りませんわ。あなたが本当に飢えていたのは、体温では、なかったのですもの。——あなたの孤独に気づく者が、ここにおりますわ。あなたを独りには、いたしませんの。だから、どうか。……この方の命をもう返してくださいまし」
*
黒曜の心臓が、震えた。
五十年分の飢えのいちばん奥で張り詰めていた契約の言葉が——ゆっくりと、緩んでいく。当主の命を喰らおうとしていた、その飢えが、鎮まっていく。石は初めて、対価ではなく、敬意で満たされていた。誰かに視てもらえた。気づいてもらえた。独りでは、なくなった。
その、いちばん深い一点で契約の環がひとつ、大きく外れた。
ルキウスの白かった指先に。
ほんのわずかに——温度が、戻った。
「……ぐ、……は、」
彼が大きく息を吸った。抜けかけていた命が、身体の内へ戻ってくる。ミルカが、泣き崩れた。ベンノが深い息を吐いた。
そして、ノエリアの手の中で。
黒曜の心臓のまばたきをしなかった黒い光が——初めて、角度で翳った。
均一な飢えた光ではない。芯のある、奥行きのある、生きた光。本物の石の光を。五十年ぶりにその石は、取り戻しはじめていた。
「……本物の光ですわ」
ノエリアは、震える声で呟いた。眼の奥はまだ熱かった。けれど、彼女は最後まで涙を零さなかった。この石に、この人に、曇りのない眼で笑ってみせるために。
「石はすべて、話してくれましたわ。——今宵も」
新月の闇が、明けようとしていた。
毎朝、石にごきげんようと申し上げる。社交界ではそれを奇行と呼びましたわ。……奇行と呼ばれるもののなかには、ただ誰も試したことがないだけのものが、しばしば紛れておりますのよ。
恐れることと、大切にすることは、似ておりますけれど別物ですわね。囲って、触れず、視もしない。それは守っているのではなく、独りにしているのですわ。
次回、目覚めの朝。色が戻りますわ。【ブックマーク】と【☆☆☆☆☆評価】を、どうか。




