第48話:庇う背中、砕ける心臓
新月の夜が来た。
空に月はなかった。光の、いちばん薄れる闇。黒曜の心臓は朝から、断続的に軋み続けていた。祭壇の間にノエリアとルキウス、ベンノとミルカ、そして護衛たちが、詰めていた。残る共鳴の仕掛けは、昼のうちにあと二つ、掘り出した。けれど、まだどこかに一つか二つ、残っている。石の飢えがそれを告げていた。
「はじめますわ」
ノエリアは、白手袋を嵌め、祭壇の前に膝をついた。黒曜の心臓にそっと挨拶をする。
「ごきげんよう。……今宵、あなたのいちばん深い孤独まで、視にまいりますわ。少しだけ辛抱してくださいまし」
石の飢えを限界まで引き出し、契約の言葉がいちばん緩む底で別の対価で満たす。危険な一度きりの工程。彼女が石に両手を伸ばした、その時だった。
*
祭壇の間の窓が外から、砕けた。
黒装束の影が二つ、三つ。会頭の手の者だった。護衛が抜刀し、ミルカが悲鳴を上げる。混乱の只中、影の一人が懐から、大ぶりの共鳴の魔具を取り出した。掘り出した仕掛けとは、比べものにならない、増幅の装置。
「——共鳴を増幅する気ですわ! 石が暴走します!」
ノエリアが叫んだ。装置が起動する。低い、地の底から響くような調べが、祭壇の間を満たした。黒曜の心臓が応えるように激しく、軋んだ。飢えが一気に噴き上がる。
装置を持った影が、混乱に乗じて、ノエリアへ突進した。石に触れかけた、無防備な彼女の背へ。
「ノエリア!!」
叫んだのは、ルキウスだった。
彼の身体が飛んだ。彼女を突き飛ばすように庇い、増幅装置の共鳴のその直撃の只中へ自ら、割って入った。
*
黒曜の心臓が悲鳴のように鳴った。
外から増幅された飢えが、いちばん近くにいた当主——ルキウスの、体温と感情を一気に喰い始めた。少しずつ年々、喰われてきたものが、今、堰を切って、いっぺんに。
「——ぐ、」
ルキウスの膝が、折れた。
彼の顔から、みるみる、色が引いていく。指先が唇が蠟のように白く。近ごろ、取り戻しかけていた温度が、感情が根こそぎ、石へと吸い上げられていく。彼は床に崩れ落ちた。
「ルキウス様!!」
ノエリアが、駆け寄った。ベンノが護衛とともに黒装束を組み伏せ、増幅装置を叩き壊す。けれど、一度堰を切った石の暴走は、装置を壊しても、止まらなかった。黒曜の心臓はいま当主の命そのものを喰い尽くそうと飢え狂っていた。
「公爵さま! しっかり——!」
ミルカが泣きながら、彼の手を握る。その手は、氷よりも冷たかった。
駆けつけた医者が、脈を取り、青ざめた。
「……脈がない。いや、ある。だが、これは……身体のどこも、傷ついていないのに、命だけが抜けていく。わたしには——手も、足も、出ません。こんな症例は見たことがない」
医術では、どうにもならなかった。これは病でも、傷でもない。契約石の飢えだった。
*
ノエリアは、崩れ落ちたルキウスの傍らに、膝をついた。
彼の顔はもう無表情ですら、なかった。表情を作る力さえ、喰われて。ただ、白く、冷たく、遠く。生まれる前から家に懸かっていた契約が、いま最後の総取り立てに来ていた。
(——間に合わせますわ)
彼女は震える手で白手袋を嵌め直した。
恐怖はあった。手が震えていた。声も。けれど、涙は零さなかった。今、泣いてはいけない。眼が曇る。曇った眼では石は視えない。
「ルキウス様。……聞こえまして?」
彼女は、暴走する黒曜の心臓に、両手を伸ばした。石は灼けるように冷たく、飢えて、荒れ狂っていた。それでも、彼女はいつものように、静かに、挨拶をした。声を震わせながら。
「ごきげんよう、黒曜の心臓。——五十年、いいえ、それよりずっと長く、独りで飢えてきた、あなたに。今宵、わたくしがあなたのいちばん深い孤独を、視にまいりましたわ。ですから、どうか——この方をまだ連れて行かないでくださいまし」
新月の闇の中、彼女の白手袋が荒れ狂う石をそっと包み込んだ。
鑑定人は、泣いてはなりませんの。涙は眼を曇らせますもの。……強がりで申しているのではございませんのよ。曇った眼で書いた鑑定書に、封蝋は落とせませんわ。
庇うというのは、間に合う場所に立っていなければできないことですのね。あの方はあの夜ずっと、わたくしの半歩うしろにいらしたのですわ。
次回、山場の核心へ。曇らない眼のまま、最後まで参りますわ。【ブックマーク】と【☆評価】を。




