第46話:五十年分の、飢えの正体
新月が近づくにつれ、黒曜の心臓は、軋みを強めていた。
根治調査であれほど鎮まっていた石が、また飢えはじめている。ルキウスの指先の温度が、日ごとに遠のいていく。取り戻しかけた感情が、また霧の向こうへ退いていくのを、彼自身がいちばん感じていた。
「外から、煽られておりますわ」
ノエリアは公爵家の最奥、心臓を納めた祭壇の前で、そう告げた。
「石は月の満ち欠けに響くことがございますの。飢えた石はとりわけ。——それを誰かが利用しようとしておりますわ。妹の言った通り」
「ドラートか」
「ええ。会頭さんは共鳴の魔具の元締めですもの。妹の光を演出した、あの技術。石を外から煽って暴走させる調べを、あの方は、知っておりますわ」
*
ノエリアは根治調査の道筋を改めて、三人に説いた。ルキウス、ベンノ、エルネスト。契約石という、鑑定の領分のいちばん深いところを。
「黒曜の心臓は五十年前、先代——ルキウス様の祖父君が、結んだ契約の石ですわ」
彼女は、石の来歴から視た記憶の断片を、言葉にしていった。
「あの頃、ヴァルトシュタイン家は、飢饉と没落の淵にございましたの。領民も、使用人も、飢えていた。先代は家とそこに連なるすべての人を守るため——この石に、当主の体温と感情を対価として差し出す契約を、結びましたの。石が家の繁栄を担保する。かわりに当主の心を少しずつ喰う」
「……つまり」
エルネストが生真面目に言葉を継いだ。
「呪いではない。契約だ。ならば、契約には必ず条項がある。結ぶ言葉があったなら、解く言葉もある道理だ」
「その通りですわ、エルネスト様」
ノエリアは頷いた。
「石を壊せば、契約の代償の後払いが、いっぺんに当主を襲いますわ。だから、壊してはいけませんの。解くには——契約を別の対価で満たすか、契約の言葉そのものを、無効にするか」
*
「別の、対価」
ルキウスが低く、繰り返した。彼の顔には五十年分の——いや、生まれる前から家に懸かっていた、契約の影が差していた。
「祖父は家のために心を売った。父も同じだった。わたしも。……ヴァルトシュタインの当主は、代々、感情を喰われることを、当たり前として、生きてきた。冷徹は家の、宿命だと」
「宿命ではございませんわ」
ノエリアは、きっぱりと言った。声がいつになく、強かった。
「契約は結べるものは解けますの。あなたが、生まれる前から冷たかったのは、あなたのせいでは、ございませんわ。——ですから、わたくしが解いてさしあげますの。五十年分の飢えのいちばん奥まで視て。石に別の満たし方を教えて」
彼女が、石に手を伸ばそうとしたとき。ルキウスの手がその手をそっと押し留めた。
その指先は——冷たかった。飢えがぶり返している。けれど、その冷たい指先が、彼女の手を握る力には、確かな温度があった。
「……危険なのだろう。その、解く工程は」
「ええ」
ノエリアは、隠さなかった。
「契約を解くには一度石を限界まで飢えさせてから、別の対価で満たす必要がございますの。飢えの底で契約の言葉がいちばん緩みますから。……ですが、その飢えの底はいちばん暴走に近い瀬戸際でもございますわ」
彼女は彼の冷たい指先をそっと握り返した。
「けれど、大丈夫ですわ。わたくしが視ておりますもの。石があなたを喰い尽くす前に、必ず宥めますわ。——石は、嘘をつきませんの。ですから、わたくしにも視えますのよ。満たし方が」
*
その夜、ノエリアは母のノートを遅くまで読んでいた。
石への挨拶を教えてくれた母。その母が契約石について、何か、書き残していないか。頁を繰るうち、古い一節に目が留まった。
『飢えた石を宥めるのは、対価ではない。——対価は飢えを一時、黙らせるだけ。石が本当に満たされるのは、その石のいちばん深い孤独に誰かが気づいたときだ』
母の、几帳面な字。
(いちばん深い孤独)
ノエリアは黒曜の心臓の来歴を思った。五十年、いや、それより前から。家のために心を差し出した先代の、「跡を頼む」という、たったひとつの遺言。誰にも視られず、誰にも聞かれず、当主の心を喰い続けてきた、あの石のいちばん奥の——孤独を。
「……そういうことですのね、お母様」
彼女はそっとノートを閉じた。新月の夜がすぐ、そこまで来ていた。
呪いと契約は、似ているようで、まるきり別物ですのよ。呪いは理不尽ですけれど、契約には必ず条項がございますの。……ですから鑑定人の出番ですわ。理不尽は祓えませんが、条項なら読めますもの。
飢えているものに餌を差し出すのは、いちばん手軽で、いちばん効かない手ですわ。腹が減っているのではない子に、いくら食べさせたところで。
次回、新月が近づきます。忍びやかな足音を、ご一緒に聞いてくださいまし。【ブックマーク】と【☆評価】を。




