第34話:贈り物は、ルーペの次に何が来るのか
風評の礫が飛び交う街の喧噪をよそに、工房の朝は、いつもと変わらなかった。
いや——ひとつだけ、いつもと違うものが、ノエリアの鑑定台に置かれていた。
濃紺の革の帙。手のひらにおさまるほどの、書物を包む誂えの覆いである。宵闇色の革に銀の箔押しで控えめに一輪の花。留め金は貝細工。
「……公爵様」
ノエリアは、それを摘まみ上げて、溜め息をついた。もはや恒例の攻防だった。
初めは、耳飾りだった(断った)。次は仕立ての制服(これは受けた)。夜会の椅子、業務用のルーペ——公爵の「対価」は、月を追うごとに少しずつ私的なものになっていく。
「これは、宝石ではございませんわね」
「宝石なら断るだろう」
鑑定室の戸口に凭れて、ルキウスが素っ気なく言った。
「それは帙だ。お前の母親のノートの。……角が擦り切れて、綴じが緩んでいた。中の紙を傷めたくなければ、包んでおけ。実用品だ」
「実用品、ですのね」
「そうだ。実用品だ」
ノエリアは、その濃紺の帙をそっと開いた。内側は、柔らかな絹張り。母のノートが、あつらえたようにぴたりとおさまる寸法だった。ノートの厚みを誰かが、そっと測ったのだ。彼女の留守に。傷めないように。
(……鑑定士は、自分の石に曇らされてはいけませんの)
その口上が、今朝は、少しばかり効き目が薄かった。
「……お借りいたしますわ。母のノートが、傷まないうちだけ」
「借りるのでいい」
彼は、それだけ言って、戸口から消えた。去り際、ほんの一瞬だけ、口角が上がっていたのを、ノエリアは見なかったことにした。胸の内の封蝋がまたことりと鳴った。
*
昼下がり、工房の隅でミルカが原石の籠を前に唸っていた。
まだ磨かれていない、ごろごろとした鉱石の塊。どれも、外からは、ただの石ころにしか見えない。
「ミルカ、なにをしておりますの?」
「あ、ノエリアさま。あの……この籠の中で、どれがいちばん良い石になるか、当ててみてたんです。親方が『目が肥えるまで五十年だ』って言うから、練習を」
「あら。それでどれですの?」
ミルカは、少し迷ってから、いちばん不格好な灰色の塊を指さした。
「これ、です。理由は……分かんないんですけど。なんか、この子だけ、中で待ってる感じがして」
ノエリアは、その石を手に取った。挨拶をして、ルーペを覗く。——外皮の下、わずかに透ける層。悪くない。いや、籠の中では、群を抜いて良い原石だった。
(この子だけ、中で待ってる感じ)
言葉にできないのに、当ててしまう。母が「石への挨拶」を教えてくれたのも、こんなふうに理屈より先に石と話す子どもだったからかもしれない。
「……よく視えましたわね、ミルカ」
「え、当たってました!?」
「ええ。けれど」
ノエリアは石を籠に戻し、ミルカの頭にそっと手を置いた。
「その勘は、大切にお仕舞いなさいな。急いで磨こうとしてはいけませんわ。原石は慌てて割ると中の光を殺してしまいますの。——あなたも、石も、ゆっくりでよろしくてよ」
才の片鱗は、片鱗のまま。急いで開かせないのが、いちばんの育て方だと、ノエリアは知っていた。
*
風評のさなかでも、下町の四つ辻の列は、途切れなかった。
むしろ、逆宣伝の刷り物を握った庶民が、「本当に偽善者かどうか、確かめてやろう」と、意地で列に並び——そして、銅貨五枚の正直な鑑定を受けて、帰るころには噂を信じなくなっていた。
「御用鑑定人さまは、うちのばあちゃんの形見を『本物だ』って、はっきり言ってくれた。偽善者が、なんで本物を本物って言うんだよ」
庶民の口が、いちばん強い。噂は、真実の前で少しずつ湿って消えていった。
*
その夕刻、一頭の早馬が、工房の門前に泥を撥ねて停まった。
東部から。ハルツ男爵家の使いだという。ノエリアが二つ目の散逸石『木陰の翠玉』を買い戻した、あの没落男爵家。別れ際、男爵はこう約束していた——「差出人のない手紙は、すべて夜天商会へ回す」と。
使いが差し出したのは、一通の粗末な封書だった。
宛名は、なかった。差出人も、なかった。ただ、封の蝋の代わりに押しつぶした花びらが一枚、糊で貼りつけてある。乾いた、白い花。
「男爵様がこれをと。『うちの領の外れの村に、名も告げずに投げ込まれていた。夜天商会の鑑定人どのにと、震える字で表書きだけがあった』と」
ノエリアは、その封書を受け取った。表書きのただ一行。
『ノエリアお姉さまへ』
その筆跡を彼女は知っていた。
子どもの頃、同じ手習いの師に並んで字を教わった。跳ねの癖。「さ」の字の最後のひと払いのあの角度。
ペルラだった。
「……ペルラ」
ノエリアの指が、封書の上で止まった。
出奔して、行方の知れなかった妹。単純な悪女ではなく、借り物の光に怯えていた、あの妹が——名も告げず、白い花を蝋の代わりに貼って、姉に手紙を寄越してきた。
封を切る手がいつもより少しだけ遅かった。
寸法を測るには、留守を狙って、あのノートを一度は手に取らねばなりませんのよ。あの方、いったい何度わたくしの鑑定台の前をうろうろなさったのかしら。「実用品だ」の四文字で押し通せるとお思いのようですけれど。
手習いの字というのは、恐ろしいものですわね。跳ねの癖がひとつあるだけで、何年離れていても分かってしまいますの。名を書かずとも、名乗ったも同じ。
次回、封を切りますわ。ご一緒に開いてくださる方は、【ブックマーク】と【☆評価】を、そっと添えて。




