第31話:戦のはじまりに、鑑定人は値札を配りますわ
卓の上に布に包んだ車軸の折れ口が置かれている。
一夜明けても、挽き目は挽き目のままだった。木の繊維の半分がささくれ、半分がつるりと滑らかな、あの断面。灯りを消しても、ノエリアの眼の裏には焼きついている。
「馬車の護衛を四名に増やした。表口にも二名置く。当面、王宮の検分以外の外出は控えろ」
朝の広間でルキウスは短くそう言った。命令の形をしていたが、その声の底には、昨夜の——彼女の肩を摑んだ、あの震える指先の名残があった。
「公爵様」
ノエリアは、御用鑑定人の紺の外套を羽織りながら、静かに返した。公務の朝は、彼を「公爵様」と呼ぶ。
「囲っていただくのは、ありがたく存じますわ。ですけれど、それでは負けですの」
「負け?」
「囲われた鑑定人は、市場に出てまいりません。相手はそれを望んでおりますのよ。わたくしを工房に閉じ込めれば、下町の偽石は、また静かに売れていく」
彼女は、白手袋を嵌めた。ぱちり、と手首で鳴る。
「あの方の武器は、金貨と流通網ですわ。でしたら、わたくしの武器は——眼と、庶民の信頼ですの。剣で殴り返してはいけませんの。値札を配り返しますのよ」
ルキウスは、しばらく彼女を見ていた。それから、外套の襟を無言で正してやると、ひとつだけ譲った。
「……護衛は四名だ。それは譲らん」
「ええ。そこは、ありがたく」
*
王都の下町——職人街の裏手に、いつからか「偽石の街」と呼ばれる一画がある。
銀貨で本物が買える、と評判の露店市。婚礼の指輪、祝いの根付、弔いの喪石。人生の節目に庶民がなけなしの銭を握って買いに来る場所だ。そのどれもが、いま少しずつ硝子と合成石に入れ替わっている。
「ガレオンの市、ってやつだ」
工房の作業台に地図を広げて、ベンノが煙管の先で一画を指した。
「表向きは『安く本物が手に入る良心の市』。実態は、東の倉庫街の量産工房から流れてくる染め硝子の掃きだめよ。値が安いから、貧乏人ほど引っかかる」
「銅貨五枚の鑑定をこの街で開きますわ」
ノエリアは地図の上に鑑定書の束を置いた。夜天商会の罫線に御用鑑定人の名。庶民が三月分の給金を溝に捨てる前に、たった銅貨五枚で「本物か、硝子か」を告げる紙。
「ノエリアさま、あたしも行きますっ」
ミルカが、鑑定書の束を胸に抱えて鼻息を荒くした。
「机を並べて、番号札を配って、列を整えます。あの、その……ご挨拶も、しますっ」
「あら、頼もしいこと」
ノエリアは、棚の隅の原石にそっと指を触れて、いつものように小さく挨拶をした。ミルカが、隣で真似をする。石に頭を下げる令嬢と、その半分の背丈の見習い。工房の朝の見慣れた光景になっていた。
*
昼過ぎ、思いがけない客が工房を訪ねてきた。
糊のきいた礼服の背筋。手には、革張りの計測器の函。王立鑑定院主任、エルネスト・ロッシュ。
「ノエリア嬢。……いや、業務の話だ」
彼は、開口一番そう言った。まるで言い訳のように。
「先般の湿度計測の追補で、下町の合成石を継続観測する必要が生じた。屈折率の温度依存を比較対照するための共同研究だ。……つまり、君の廉価鑑定の隣に私の計測台を置く。院の名において」
「計測の追補、ですのね」
「そうだ。追補だ」
ノエリアは、扇の陰でわずかに口角を上げた。この生真面目な男は、「加勢に来た」の一言が、どうしても言えないのだ。眼を再現性のないものと切って捨てた男が、その眼の隣に自分の計測器を並べに来る。
「エルネスト様。眼は数字で裏づけられ、数字は眼で肉づけされますわ。——ご一緒いたしましょう」
「……記録のためだ。他意はない」
彼はぶっきらぼうにそう言って、函を抱え直した。耳の先が、ほんの少し赤い。
*
その日の夕刻、下町の質屋の女将が、息を切らして工房に駆け込んできた。
「御用鑑定人さま! どうか、どうか視ていただきたいものが」
差し出されたのは、黒い喪の石。葬礼のとき、遺族が故人の胸元に添える、弔いの黒瑪瑙だ。
「うちにこの半月で同じ石が七つも質入れされました。どれも、つい先日、葬儀で使ったばかりのもの。……それが、みんな返しに来るんです。『棺に入れた石が、火の中で溶けた』と」
ノエリアの指が、止まった。
黒瑪瑙は、火に溶けない。
溶けるのは——硝子だ。
「女将さん」
彼女は、白手袋を嵌め直した。ぱちり、と、いつもより低い音がした。
「その七つ、すべて拝見いたしますわ。——弔いの石で商いをする者が、この王都にいるのなら。それは、わたくしが、いちばん赦せない類の偽物ですの」
銅貨五枚。たったそれだけで、三月分の給金を溝に捨てずに済みますの。鑑定料は高いほど立派——その思い込みこそ、あの市がいちばん頼りにしている元手ですわ。
それにしてもエルネスト様。「他意はない」と念を押されるほど、他意はにじむものですわね。耳の先が正直でいらっしゃること。
次回、涙の代わりに硝子を握らされた方のもとへ参ります。義憤の一件、お覚悟くださいまし。【ブックマーク】と【☆評価】を、扇の陰から。




