第30話:婚礼指輪と、二十年前の轍
その日の最後の客は、若い石工の青年だった。
「来月、祝言で。……なけなしの蓄えで買ったんです。女房になるやつに本物をって」
廉価鑑定の列に三刻、並んだという。差し出された小箱には、小さな紅玉の指輪。市場の宝飾店で銀貨三十枚。職人の三月分の給金だ。
挨拶をして、白手袋。ルーペを覗いて——ノエリアは、まぶたを伏せた。
染め硝子、だった。
「……あなたに二つのことを申し上げますわ」
彼女は青年の目を見て、言った。
「ひとつ。この石は、染め硝子です。銀貨三十枚の値打ちは、ありません」
青年の顔から、血の気が引いた。握りしめた拳が膝の上で震える。
「ふたつ。——購入の控えは、お持ちですわね? 夜天商会が、買った店への返金請求を、代行いたします。御用鑑定人の鑑定書つきですもの、店は逃げられませんわ。お代は戻ります」
「で、でも、祝言は来月で……指輪が……」
「ですから、みっつめ、ですの」
ノエリアは職人の名簿をめくった。
「うちの工房に腕のいい若手がおりましてよ。銀貨三十枚で硝子ではない小さくとも正直な石の指輪を誂えるのが、どれほど腕の見せどころか——石工のあなたなら、お分かりになるでしょう?」
青年が帰るころには、その肩は、来たときよりずっと軽くなっていた。入れ替わりに、ベンノが請求書類の写しを手に、渋い顔で入ってくる。
「これで今月、十一件目だ。例の店の仕入れ元、ぜんぶ辿ったぜ。——東の倉庫街。ガレオンの量産工房だ。型枠から染料まで同じ筋だよ」
「……廉価鑑定を始めて、三月。会頭さんの市から、客足が引きはじめたそうですわね」
「ああ。向こうさんの懐にようやく届きはじめた。——気をつけな、お嬢。懐に手が届いた相手は、嚙みつくもんだ」
*
その夜、ノエリアは王宮での定例検分を終え、商会の馬車で帰路についていた。
護衛は二名。ルキウスの「経験則」は、あれから一度も、緩んでいない。今夜も御者台の隣に一人、馬車の内に一人。
雨が、降りはじめていた。
(……雨)
窓ガラスを伝う雫を眺めながら、ふと思う。母が死んだのも、こんな夜だった。雨。馬車。折れた、車軸——。
がくん、と。
車体が大きく傾いだ。
「——お嬢様!!」
護衛の腕が咄嗟にノエリアを抱え込む。世界が斜めに流れ、車輪の悲鳴、馬のいななき、泥水。馬車は街路樹に車体を擦り付けるようにして、ようやく停まった。
左の前輪が外れて、転がっていた。
「……車軸が」
御者が雨の中で青ざめていた。
「折れてます。けど、おかしい。今朝、検分したばかりだ。それに、この折れ口——」
ノエリアは、泥濘に膝をつくのも構わず、外れた車軸に顔を寄せた。白手袋はもう嵌めていた。鑑定士の手が、勝手に動いていた。
「……灯りを」
護衛のかざす提灯の下、折れ口が、照らされる。木の繊維がささくれて千切れているのは、断面の半分だけ。残りの半分は——つるりと、滑らかだった。
「挽き目、ですわ」
声が自分でも驚くほど、静かだった。
「鋸で半分まで挽いてあります。あとは走らせて、揺れの大きい曲がり角で、自然に折れるのを待つだけ。……雨の夜なら、ただの事故に見えますわね」
二十年前と同じ、手口。
母のノートの最後の頁が、雨音の向こうでめくれた気がした。あの夜の母の馬車の車軸も、きっとこんな折れ口をしていたのだ。——誰も白手袋で、検めなかっただけで。
二十年。母の事故は、ずっと「事故」のまま、土の下にあった。けれど今夜、同じ刃が娘の足元でしくじった。
「お嬢様、ここは危険です。すぐに商会へ——」
「ええ。……ですがその前に車軸を。折れ口ごと布で包んで持ち帰りますわ」
ノエリアは雨の中で立ち上がった。
「これは事故ではなく、物証ですもの。——母が遺せなかった、物証ですわ」
*
商会に戻った彼女を玄関広間で出迎えたルキウスは、泥だらけの姿を見て、一瞬、彫像のすべてが剝がれた。大股に歩み寄り、両肩を摑む。
「——怪我は」
「ございませんわ。護衛のお二人のおかげで」
「…………そうか」
肩を摑んだ手は、すぐには、離れなかった。その指先が外套越しにも分かるほど、強く——そして、震えていることにノエリアは気づいた。
冷たいはずの指先が。
あの黒曜の心臓に五十年、感情を喰われ続けてきた指先が。いまはっきりと震えている。
「ルキウス様。わたくし、確信いたしましたの」
彼女は布に包んだ車軸の折れ口を、卓に置いた。
「二十年前の母も、事故では、ありませんでしたわ。同じ手口で消されたのです。……そして敵は今夜、わたくしで二十年前の轍をもう一度、なぞろうとした」
「ああ」
「つまり——敵はもう、わたくしが大宝冠の秘密に届いたと、確信している。様子見は、終わりましたの。ここから先は」
「戦争だ」
ルキウスの声は静かで底に火があった。
「望むところだと言いたいが——ノエリア。ひとつだけ先に言っておく」
彼は泥に濡れた彼女の髪を、一瞬だけ見て、目を逸らした。
「……今夜、馬車の報せを受けてからの、四半刻。わたしは。————いや。……無事でよかった」
言いかけて呑み込まれた言葉の続きを、ノエリアは、聞かなかった。聞かないまま、胸の奥の封蝋がことりと音を立てた。
——その続きは、呪いが解けた日に。あなたの感情が、ぜんぶあなたのものに戻った日に、もう一度。
窓の外、雨はまだ降っている。二十年前に母を呑んだ雨と、同じ雨が。けれど娘は母とちがって、独りではなかった。工房があり、職人たちがいて、妹の手紙があり、計測の友人がいて——そして、震える指先で肩を摑む、この人がいる。
(お母様。見ていてくださいまし)
車軸の折れ口が燭台の灯りの下で鈍く、光っていた。
石は、嘘をつかない。
——そして木も、鋼も、人の悪意も。視る眼の前では何ひとつ、嘘をつけないのだ。
【第1部・工房開花編 完】
第1部「工房開花編」、これにて完結でございます。最後までお読みくださり、ありがとう存じました。
勘当された石ころ令嬢は、眼ひとつで居場所と仲間を手に入れました。けれど母を呑んだ二十年前の雨が、いま娘の足元まで降りてきております。
第2部「偽宝石流通編」——東の倉庫街の帳簿に、いよいよ手が届きますわ。会頭さん、お覚悟はよろしくて?
続きをお待ちくださる方は、ぜひ【ブックマーク】と【☆☆☆☆☆評価】を。皆さまの応援が、第2部の幕を上げる何よりの力ですの。




