第3話:黒曜の心臓、五十年分の孤独
本邸の最奥は、窓のない円形の間だった。
中央の台座に、それは据えられていた。
大人の拳ほどの、黒曜石。磨かれた面は鏡のように深く、燭台の灯をことごとく呑み込んで、ひとかけらも返さない。
「『黒曜の心臓』。ヴァルトシュタイン家の家宝だ」
ルキウスの声が、石の間にひくく反響した。
「歴代の鑑定士が二十人、この石を視た。全員が『ただの見事な黒曜石』と書いた。——お前の眼には、どう視える」
来る前に、ベンノに言われたことを思い出す。
——お嬢、ありゃ視ない方がいい石だ。あの部屋に入った鑑定士は、みんな逃げるみてえに辞めていった。
ノエリアは、台座の前に膝を折った。
「ごきげんよう。……お邪魔、いたしますわね」
石に挨拶をして、ぱちりと白手袋を嵌める。背後で公爵が、かすかに息を呑む気配がした。
両手で、そっと包む。
——冷たい。
石の冷たさではなかった。これは、奪われ続けたものの冷たさだ。
昨夜、馬車の中で握った、あの指先と同じ。
「…………」
視える。
深い深い黒の奥に、契約の文字のように刻まれた、規則正しい彫りの痕。装飾ではない。これは——条文だ。
「公爵様。この石は、装飾品ではございませんわ」
ノエリアは、視えたものを、静かに言葉へ移した。
「これは『契約石』。およそ五十年前に、何者かの手で契約を刻まれています。対価を、定期的に徴収する形式の——」
「対価」
「ええ。……この石は、当主の体温と、感情を、喰らい続けておりますの」
石の間が、完全な静寂に落ちた。
ノエリアは続けた。止まれなかった。石の奥から、視えてしまったから。
「五十年、休みなく。先代様の代から、ずっと。指先の冷たさ。表情の動かなさ。怒りも喜びも、年々遠くなる感覚——お心当たりが、おありのはずですわ」
返事はない。それが、何よりの返事だった。
「そして……石の、いちばん深いところに」
声が、すこし掠れた。
「言葉が、残っています。契約を結んだ方の、最後の声が。——『跡を、頼む』と」
長い、長い沈黙があった。
やがてノエリアが振り返ると、宵闇の宝石公と呼ばれた男は、彫像の顔のまま——けれど、どこか少年のように、立ち尽くしていた。
「……父の、声だ」
ぽつりと、言った。
「先代は、家を守る対価にこの石と契約した。わたしが継いだのは石と商会と、それから——この、冷えだ。五十年。誰にも、視えなかった」
自嘲とも安堵ともつかない、深い息。
「お前が、初めてだ。ノエリア・グランツ」
名を、初めて呼ばれた。石ころ令嬢でも、グランツの長女でもなく。
「契約を解く方法は、ございます。けれど簡単ではありませんわ。この刻みの形式は古い……来歴を、契約の原点まで遡る必要があります。年単位の、調査になるかと」
「構わん。五十年待った」
「ですが——」
ノエリアは、もう一度石に向き直った。
「今夜の『飢え』は、いま宥められますわ」
やり方は、母のノートにあった。契約石は、徴収の間際がいちばん飢える。そのとき、石の刻みに沿って、別の熱を「貸して」やればいい。
燭台を引き寄せ、灯りの角度を変える。布で面を清め、刻みの筋に沿って、ゆっくりと、ゆっくりと温めた指先でなぞる。撫でるのではない。帳尻を、合わせてさしあげるのだ。
やがて——きしり、と鳴り続けていた石の奥の軋みが、ふつりと止んだ。
ルキウスが、無言で自分の手を見下ろした。手袋を外す。露わになった指先で、おそるおそる、石の面に触れる。
「…………温度が、ある」
「今夜の分だけ、ですけれど」
公爵は、しばらく自分の指先を眺めていた。それから、いつもの低い声に戻って言った。
「——対価を言え。借りを作らん主義だ」
「では」
ノエリアは、すまして答えた。
「契約書の肩書きから、『試用』の二文字を消してくださいまし。わたくし、この工房が気に入りましたの」
「……交渉が下手だな。倍の俸給を言える場面だぞ」
「あら。わたくしの値段は、わたくしが決めますわ」
石の間を辞すとき、背中に声が降った。
「『石ころ』、か」
振り向くと、公爵は黒曜の心臓を見つめたまま、誰にともなく言った。
「あの家の者は、宝石の見方も知らんらしい」
*
——同じ夜。王都、グランツ商会。
「ペルラお嬢様の鑑定で、東方の商隊から紅玉を三十、青玉を五十、即日買い付けました!」
「光ったのね? なら全部本物よ。倉庫へ運んで」
歓声に沸く商会の検品台を、誰も気に留めない石たちが、するすると素通りしていく。
かつてそこには、買い付けのたび、一つひとつの石に挨拶をして、半日かけて選り分ける「地味な眼」があった。
その眼が弾き続けていたものが何だったのか——気づく者は、もう、あの商会にはいない。
冷徹は、お人柄ではなく「症状」でしたの。
五十年分の孤独に、初めて温度が灯った夜。……ですが王都では、姉の眼を失った商会の検品台を、何かが静かに通り抜けはじめています。【ブックマーク】と【☆評価】で、どうぞ二人の工房を見守ってくださいまし。




