第18話:宵闇の工房、灯りはふたつ
夜半の工房は炉の残り火だけが、ぽつりと赤かった。
ノエリアは、眠れずに降りてきていた。手には、母のノート。このごろ、夜にこれを開く回数が、増えた。ドラートのあの一言から、頁をめくるたび、母の字が、遺言のように見えて、仕方がない。
「眠れんのか」
声に振り向くと炉の灯りの届かない暗がりに、ルキウスが、立っていた。上着もなしのシャツ姿で、手には葡萄酒の壜と杯がふたつ。
「……公爵様こそ」
「わたしは元々、あまり眠らん。——付き合え。雇用主命令だ」
炉のそばの作業台に杯がふたつ、並んだ。とくとくと注がれる赤を眺めながら、ノエリアはふと可笑しく、なった。
「ふふ。勘当された夜のわたくしに、教えてさしあげたいですわ。半年後のあなたは、公爵さまと炉端で晩酌しております、と」
「信じんだろうな」
「ええ、まったく」
軽く杯を合わせる。火が爆ぜる。心地よい沈黙がひとつ、ふたつ。
——この沈黙が心地よくなったのは、いつからだったろう、と思う。
「……ひとつ、聞いてもよろしくて?」
「言ってみろ」
「あの夜——どうして、わたくしを拾ってくださいましたの? 『眼を買った』のは、伺いました。けれど、雨の中で馬車を停めるのは、お買い物にしては、ずいぶんお優しい所作ですわ」
ルキウスはすぐには、答えなかった。杯の中の赤を灯りに透かす。
「……『海色の涙』の検分を終えて、会場を出た。お前の言葉が正しかったと分かった瞬間に、考えたことがふたつ、ある」
「ふたつ」
「ひとつはこの眼は商会の百年に値する、という算盤だ。これは噓ではない。わたしは商人だからな」
「もうひとつは?」
炉の火がぱちりと鳴った。
「……広間でお前は笑っていた」
彼は杯を置いた。
「家を失い名を失い雨の中を歩く女が、嘲笑の真ん中で完璧に笑っていた。——わたしはああいう笑い方をひとつだけ知っている」
「…………」
「鏡の、中だ」
ノエリアは息を呑んだ。
ルキウスは、自分の右手をゆっくりと開き、炉の灯りにかざした。指先は今夜も白い。
「黒曜の心臓が喰っているのは、体温と——感情だと、お前は言ったな。正確に言えば、感情の端のほうから、喰われていく。怒りの鋭さ。喜びの跳ね。悲しみの深さ。年々、すこしずつ、遠くなる。それでも社交の場では、笑わねばならん。だから、ああいう笑い方になる。端のない完璧なだけの笑い方に」
「……あの夜のわたくしは、それと同じに見えましたのね」
「ああ。だから、停めた。算盤はその後だ。……雇用主としては失格の順序だな」
ノエリアは首を横に振った。喉の奥がすこし、熱かった。
誰にも視えなかった彼の五十年に、彼女の眼が、触れたように。——誰にも見抜かれなかった彼女の笑い方を、この人の目だけが、見抜いていたのだ。
石ころ、と笑った三百人の中で。たった一人。
「公爵様。鑑定の訂正を申し上げますわ」
「ほう」
「あの石が喰い残したものは、思っていたよりずっと多うございます。——現にあなたは今、笑って、おいでですもの」
ルキウスが虚を突かれた顔をした。
それから、自分の口元に指先で触れ——本当に、かすかに、口角が上がっていることを、確かめて。彼は途方に暮れたように言った。
「……気づかなかった」
「ふふ。鑑定眼の勝ち、ですわ」
「…………お前が来てからだ」
ぽつりと落ちた、言葉だった。
炉の火がまたぱちりと鳴った。
それきり、どちらも、何も言わなかった。言わないまま、葡萄酒は半分まで減り、夜は静かに更けて、ふたつの杯の影が、作業台の上で寄り添うように並んでいた。
まだそれだけのこと。けれど、もうそれだけのことではない夜だった。
*
翌朝。工房に王室からの早馬が、着いた。
羊皮紙の文面は、簡潔だった。
——王室御用鑑定人ノエリア・グランツに、命ず。
——王室宝物庫の所蔵品、全点につき、定期検分を行うべし。
——検分は、来月朔日より。宝物庫最奥の格納品も、これに含む。
読み終えて、ノエリアとルキウスは、目を見合わせた。
宝物庫の最奥。
そこに何が眠っているのかを、ふたりはもう、知っている。
——『七耀の大宝冠』。
第2章、これにて幕でございます。炉端の夜に灯りはふたつ。杯もふたつ。
「お前が来てからだ」を頂戴いたしました。皆さま、ご唱和の準備はよろしくて? 次章、舞台は王室宝物庫の最奥へ。お母様が視たものを娘の眼が視に参ります。【ブックマーク】と【☆☆☆☆☆評価】を、何卒!




