第五話 苦手なものにも、ちゃんと理由がある
ドレスの試着を重ねるうち、メルティナは少しずつ、鏡の前に立つことに抵抗を感じなくなっていた。
だが、その日フェリオンが用意した化粧道具一式を見た瞬間、メルティナの表情は分かりやすく強張った。
「……あの」
「ん?」
「メイクは、その、あまり得意ではなくて」
消え入りそうな声で白状する。
服なら、幼い頃から職人たちに囲まれて育ってきたから、生地や意匠を見ることには慣れている。けれど化粧筆を握った経験は数えるほどしかなかった。夜会の前に軽く紅を差す程度で、それ以上のことをした試しがない。
「知っているよ」
「え」
「ここ数日、様子を見ていれば分かる。ドレスを選ぶ時は目が輝くのに、鏡台に化粧道具が並ぶと途端に顔がこわばる」
見透かされていたことに、メルティナは思わず頬を赤らめた。
「……苦手意識がある人間には、大抵ちゃんと理由がある」
フェリオンは化粧筆を一本手に取りながら続けた。
「自分でやろうとして上手くいかなかった。誰かに笑われた。あるいは、教えてくれる人がいなかった。そのどれかだろう」
「……最後のです」
メルティナは小さく答えた。
実家には侍女はいたが、専属の化粧係がいたわけではない。夜会の前だけ、慌ただしく最低限のことをしてもらう程度。自分でやろうとしても、いつも仕上がりがちぐはぐで、途中で諦めてしまっていた。
「なら、話は早い」
フェリオンは鏡の前の椅子にメルティナを座らせると、その後ろに立った。
「いいか、服だけ完璧に整えても、頭の先まで気を配らなければ意味がない」
「そんな、大げさな……」
「大げさなものか」
フェリオンは真顔で言い切った。
「ドレスも、髪も、化粧も、宝飾品も――全部合わせて一つの装いだ。どれか一つが欠けても、印象はがらりと変わる」
そう言いながら、フェリオンは手早くメルティナの髪を一房取り、指先で軽くひねる。
「うわっ……」
「動くな。まずは髪から。顔立ちの印象は、化粧より先に髪型で九割決まると言ってもいい」
鏡越しに、器用な手つきで髪が編み上げられていくのをメルティナは呆然と見つめていた。彼のいう「頭の先から足の先まで」が、単なる決まり文句ではなかったのだと、今更ながらに実感する。
髪が仕上がると、次はいよいよ化粧道具が並べられた。
「まずは肌を整える。それから――」
フェリオンの説明は、メルティナが想像していたよりもずっと理論立っていた。骨格に合わせた陰影のつけ方、瞳の色を引き立てる色の選び方、唇の形を活かす紅の塗り方。どれも、これまで誰も教えてくれなかったことばかりだった。
「意外と、理屈があるんですね」
「感覚だけでやっていると思っていたのか? これでも留学先で相当仕込まれている」
「留学先、ですか」
「ああ。あちらでは、服飾も化粧も、一つの学問として扱われている。感覚だけに頼るものじゃない」
フェリオンの手が、メルティナの目元に淡い色をのせていく。くすぐったさに何度か身をよじりそうになりながらも、メルティナはじっと鏡を見つめ続けた。
「よし、こんなものか」
最後に一歩下がり、フェリオンが満足げに頷く。
鏡の中には、これまで見たことのない自分がいた。髪は緩やかに編み込まれ、頬にはほんのりと血色が差し、目元には控えめながらも印象的な陰影が加えられている。派手すぎるわけでも、これ見よがしなわけでもない。ただ、確かに「自分」でありながら、今までよりずっと生き生きとした顔がそこにあった。
「……すごい」
思わず呟いた声に、フェリオンが片眉を上げる。
「すごいのは俺の腕前じゃなくて、元々の君の顔立ちだ。俺はただ、その良さを引き出す手伝いをしただけ」
「そんな、謙遜を」
「謙遜じゃない、事実だ」
あっさりと言い切られ、メルティナはなんとも言えない気恥ずかしさに視線を落とした。
「今度から、俺がいない時にも自分でできるように、一つずつ手順を教えていく」
「本当ですか?」
「もちろん。苦手なものほど、きちんと理屈から理解した方が身につく。感覚に頼るのは、基礎ができてからでいい」
メルティナは鏡の中の自分をもう一度見つめた。
苦手だと思い込んでいたものにも、ちゃんと理由があった。そして、その理由を一つずつ解きほぐしてくれる人がいる。
それだけのことが、こんなにも心強いのだと、メルティナは初めて知った。




