今度こそ、二本
「やっぱり、無理」
――涼香のその一言を最後に、世界は巻き戻った。
次に目を開けたときには、私は見慣れた自分の部屋のベッドにいた。
起き上がる気にもなれないまま、しばらく天井の一点を見る。
「お疲れさまイルカ」
枕元の空間に、青いイルカ型のホログラムがふわりと浮かぶ。イルカイルだ。……そうか、戻ってきたんだ。
「……結果だけ、聞かせて」
「瓶は二本しか溜まらなかったみたイルカね」
「二本」
「でも落ち込んでる暇はないイルカ。涼香は一旦保留にして、今は溜められる瓶から溜めるイルカ」
「保留って」
「事実イルカ」
こっちの落ち込みには最初から触れる気のない、いつもの業務報告の声だった。
溜められる瓶から、か。涼香は、補充のきかなくなった棚みたいに、あっさり後回しにされたわけだ。
「ねえ、イルカイル。涼香は最後記憶を――」
「あ〜! いそがしイルカ! もう行かないと〜!」
そう言いながらイルカイルは、光の粒子になって消えてしまった。
あの目は、たしかに拒絶だった。涼香が見ていたのは、私を通したその後ろの誰か――優だ。
消えたはずの記憶が、戻りかけていたんじゃないか。
「お姉ちゃん、朝だよー」
階下から、出海の声。私はベッドから降りた。
「今行く」
さっきまで別の夏にいた、なんて顔をしてはいけない。
階段を降りると、食卓には私の分のトーストが、いつもの少し焦げた焼き加減で置いてあった。
「おはよう、お姉ちゃん」
「おはよう」
トーストの焦げ方も、出海の声も、前の周とまるで同じ。
……同じじゃないのは、この家でたぶん、私だけだ。
***
放課後、十六室の扉を開けると、ソファに久遠先輩と紡先輩、壁際に雪乃が、今回のループに入って初めて揃っていた。
「おかえり、真白。今回も、よく頑張ったわね」
立ち上がった久遠先輩が、私の頬に手を添える。
耳の奥に残っていた涼香の声が、その掌の温かさに遠のいた。
「……ただいま戻りました」
何があったかを、久遠先輩は聞かなかった。
壁際で雪乃が露骨に顔をしかめたのと、空中で青い光が弾けたのは、ほとんど同時だった。
「報告するイルカ! 残念ながら涼香は失敗イルカ。二本しか溜まらなかったイルカ」
十六室が、静かになった。
久遠先輩が目を伏せ、雪乃が壁を蹴る。
紡先輩は、表情を変えずにスマホを置いた。
「何があったの?」
「最後に、拒まれました。……途中から、涼香の目が変わって」
「変わった、というのは」
「知らない人間を見る目、でした。私じゃなくて、私の後ろの誰かを探すみたいな」
「……なるほど」
「記憶が、戻ったのかもしれません。涼香の中に、本当の記憶が」
「記憶って、どうやって戻るんだ」
雪乃が、イルカイルに向き直った。
「イルカ。教えなさい」
「それは、教えられなイルカね。企業秘密イルカ!」
「企業って何だよ」
「それも秘密イルカ!」
青色の光がひときわ強く瞬いて、イルカイルは空中から消えた。
逃げた。
「……っ、あのクソイルカ」
雪乃が舌打ちする横で、紡先輩が口を開いた。
「次に進みましょう。前の会議で名前が挙がっていた候補よ」
「……誰ですか」
「藤代終先生と、四条ののみ」
終先生と、四条ののみ。
私より年上の頼りない新米教師と、学年もクラスも違うオカルト研究部の女の子。
どちらも、今の私には接点がほとんどない。
「教師と生徒は、別々の行動をするわ。昼休みも、放課後の居場所も別」
「情報が漏れる心配がない、ってことですか」
「そう。時間差で会えば、同時攻略の組み合わせとしては現実的ね」
先生と、生徒。たしかに、居場所は綺麗に分かれている。
「……今度こそ、失敗しないように。二本、同じ日に満たします」
口に出してしまえば、あとは、やるだけだ。
涼香のことは、頭の隅に押しやった。
「まず、四条ののみに会ってきます。放課後なら、部室にいるはずだから」
「……また、知らない女のところに行くのか」
雪乃が、ぼそりと言った。
「うん」
私が短く返すと、雪乃はそれ以上言わずに、唇を曲げた。
「いってらっしゃい、真白」
久遠先輩の声が、背中にかかる。
雪乃は腕を組んだまま、じっと私を見ている。口を出したいのに出せない、いつものあの目だ。
私はその視線を背中で受けて、十六室を出た。
窓の外は、もう夕方のオレンジ色に染まっていた。
これから会いに行くのは、藤代終先生と、四条ののみ。私はまた、帰るために攻略する。
……何周繰り返しても、ここから歩き出す足が重い。それでも私は、部室棟へ続く渡り廊下へ出た。




