あんた、誰……?
涼香の家は、駅から歩いて十五分の住宅街にあった。
表札に「双葉」とある。
何度もメッセージは送り合ったのに、家に来るのは初めてだ。
インターホンを押すと、すぐに玄関が開いた。
「……来た」
「うん。お邪魔します」
涼香はドアを開けて、私を中へ通した。
家族は旅行で、二、三日いないらしい。
夕食は、涼香の手料理だった。
テーブルに並んだのは、ご飯と、肉じゃがと、味噌汁。
涼香が、台所とテーブルを何度も往復する。
「座ってて。ほら」
「手伝うよ」
「いい。座ってて」
箸をつける。
肉じゃがも味噌汁も、ほんの少ししょっぱい。涼香が、何度も味見した跡だと思った。
「……おいしい」
「嘘」
「ほんとに。ちょっとだけ、味は濃いけど」
「………」
涼香が、私を睨んだ。
でも、箸を持つ手が、さっきから止まっている。
食べ終わる頃には、涼香はよく喋っていた。
いつもの、短く突き放す涼香ではなかった。
付き合っていた頃のことを、一つずつ、嬉しそうに並べていく。
「覚えてる? 中学のとき。真白、反対方向なのに、私が一人で帰ってると、いつも駅まで付いてきてさ」
「……ああ、うん」
「『たまたま同じ方向』って、毎回バレバレの嘘ついて。あれ、今思えば……」
私は、相槌を打つが、もちろんそんな記憶はない。
この世界の『私』が、涼香とどんな時間を過ごしたのか、私は何も知らない。
猫カフェのときと、同じだ。
涼香が話す思い出の中に、私はいる。いるのに、私じゃない。
それでも涼香は、嬉しそうに話し続ける。
私は、「うん」と「そうだったね」を繰り返すことしかできなかった。
気がつくと、二十三時を回っていた。
涼香は、まだ話し足りなさそうだった。
「真白、先にお風呂入って」
「いいの?」
「いいから」
脱衣所には、新しいタオルと、封を切っていない歯ブラシが一本、置いてあった。
棚には、箱に入ったままの入浴剤。
涼香が今日のために用意したものが、家のあちこちにあった。
全部、明日には涼香の中から消える。
用意したことも、用意した相手が私だったことも、忘れる。
風呂から出ると、交代で涼香が入った後、リビングでスマホを見ていた私を呼び、涼香の部屋へ案内してくれた。
涼香の部屋は、片付いていた。
床に、布団が敷いてある。
一組だけ。
「……何も言わないで」
涼香が、壁のスイッチに手を伸ばす。
電気を、半分だけ落とした。
部屋が、常夜灯のオレンジ色になった。
涼香が、私の前に座った。
私は涼香の首筋に手を滑らせて、唇を重ねた。
涼香は逆らわず、私の胸元へ手を伸ばしてきた。
布団の上に、二人で崩れる。
幾度かキスを交わしながら、私は涼香のパジャマのボタンに指をかけた。
涼香の息が上がる。
キスの途中で、涼香が、目を閉じたまま言った。
「ねえ、あの時の――」
猫カフェで涼香が言いかけたとき、私は退店時間を言い訳に逃げた。
でも今度は、逃げなかった。
「うん」
私が、聞き返す。
涼香が、目を開けた。
その目の焦点が、私の顔ではなく、私の少し向こうで結ばれていた。
涼香の指が、ボタンの上で止まる。
その手が上がって、私の頬に触れた。
指先が、顎から頬骨へとなぞっていく。
何かを、指先で探している。
探して——見つからない。
「待って……」
「涼香?」
涼香の指が、私の頬で止まる。
唇が、開いて、閉じて、また開いた。
「……あんた、誰……?」
その言葉に、いちばん驚いていたのは、涼香自身だった。
「私、真白だよ」
「分かってる」
涼香の声が、掠れる。
「分かってる。分かってるのに……なんで……」
目の縁から、涙がこぼれた。
次から次へと落ちて、止まらない。
声が、震える。
「……やっぱり、無理」
屋上で聞いた言葉だった。
あのときは、即答だった。早すぎる「は? 無理」だった。
今度のは、違う。
喉の奥から、一文字ずつ、絞り出すような声だった。
私は、涼香の背中へ腕を回そうとして、止めた。
泣いている涼香を抱きしめても、それは涼香のためじゃない。瓶を満たすため、自分のためだ。
説得する言葉も、何に謝ればいいのかも、私は分からない。
「……ごめん」
それでも、口から出たのは、それだけだった。
「わからない……なんで……涙、止まらないの……」
涼香は、そのままずっと泣いていた。
私は、その涙を拭くことすら、できなかった。
枕元のスマホが、〇時に変わる。
その瞬間、部屋の輪郭が、ぐにゃりと歪んだ。
涼香の泣き顔が、常夜灯の色と一緒に溶けていく。
最後に見えたのは、泣きじゃくる涼香の顔だった。




