たまには、私からも
昼の家は、静かだった。
両親と出海は、朝から親戚の集まりに出かけている。
出海は最後まで「お姉ちゃんも来ればいいのに」と玄関で渋っていたけれど、「テストで疲れたから留守番してる」と言うと、頬を膨らませて車に乗り込んだ。
夕方まで、誰も帰ってこない。
インターホンが鳴ったのは、約束の時間ちょうどだった。
紡先輩は、時間に正確だ。
扉を開けると、白いシャツに膝丈のスカートの紡先輩が立っていた。
そして、頭の横に緑のヘアピンがついているが、髪は相変わらず一房だけ跳ねていた。
「……それ気に入ってくれてるんですね」
「まあ、ね……」
「嬉しいです」
紡先輩の指が、自分の髪についているヘアピンに触れた。
「ループしたら消えるのに、って言ってましたよね」
雑貨屋であれを買ったとき、紡先輩は確かにそう言った。
買った意味がなくなる、と。
「消える前に、使うの。それだけよ」
私の部屋に通すと、紡先輩はベッドの縁に腰かけた。
膝の上で両手を組んで、背筋を伸ばしている。
私は紡先輩の前に立ち、緑のヘアピンに触れた。
私は紡先輩の顎に手を添え、唇を重ねた。
啄むように一度。続けて重ねると、紡先輩の息が少し乱れた。
「ん……っ、真白……」
三度目を交わしているうちに、紡先輩の手が私の背中へ回っていた。
私は一度だけ、身体を離す。
紡先輩が上体を起こし、ベッドサイドのバッグへ手を伸ばした。
小さな箱を取り出して、私へ渡しかける。
けれど、あと少しのところで、ぴたりと手が止まった。
「……やっぱり、いいわ。今のは、なし」
「え」
「忘れて。しまうから」
「待って待って、何ですかそれ。気になるに決まってるじゃないですか」
「気にならない」
「直前で引っ込められて、気にならない人なんていません」
紡先輩は箱を胸に抱えて、私から隠すように半身をひねった。
「紡先輩」
「……」
「見せてください。ね?」
「……笑わない?」
「笑いません」
「絶対?」
「絶対」
たっぷり逡巡してから、紡先輩はやっと、その箱を私の手のひらへ載せた。
蓋を開ける。
収まっていたのは、手のひらに乗るくらいの、卵のかたちをした道具だった。
コードの先に、小さなスイッチがついている。
何に使うものかは、すぐに分かった。
「紡先輩、これ……わざわざ?」
「べ、別に……っ」
目を逸らしたまま、紡先輩の声が早口になる。
「あなた、いつも……私にしてくれるばかりでしょう」
「……はい」
「だから、その……たまには、あなたが楽しいほうが、いいと思って。これなら、使いやすいかと」
「…………」
「……っ、だから、笑わないでって言ったでしょう」
「笑ってないです。にやけてるだけで」
「笑ってるじゃない!」
違う。これは、嬉しいだけだ。
いつも私がするばかりだったから、紡先輩は、何かを返したかったのだ。
私があの緑のヘアピンを渡したように、今日は、紡先輩の番。
出すかどうか、ぎりぎりまで迷って、それでも持ってきてくれた。
その気持ちが、まっすぐ伝わってくる。
「……ありがとうございます、先輩」
「お礼を言うところじゃ、ないでしょう」
言い終わらないうちに、紡先輩は唇を結んで顔を背けた。
その横顔が可愛くて、私は紡先輩をそっとベッドへ倒し、上から覆い被さる。
そして私は、卵形のそれのスイッチを入れた。
冷たい、と肩を跳ねさせた紡先輩は、けれどすぐに、声を抑えられなくなった。
胸から、お腹へ、腿の内側へ。直に触れないまま、いちばん欲しがる場所のすぐ手前で、振動だけを送り続ける。
「んっ……はぁ……っ、意地悪……よ……真白……っ」
「だめ」と繰り返す声が、だんだん高くなっていく。
こらえていた息が、ひときわ高く解けた。
私の肩にしがみつく指へ力がこもる。その強張りがほどけていくまで、やさしく触れ続けた。
「あ……っ……はぁ……っ……」
揺れが凪いだ頃、私はそれを止めて、そっと引き離した。
紡先輩を抱きしめ直して、額や頬に、何度も口づける。
「先輩、可愛かったです」
「……うるさい」
悪態の声が、もう力を持っていない。
紡先輩は私の胸に顔を埋め、身体を丸めた。
荒い息が、シャツの布越しに伝わってくる。
覚えていてくれる人と、こうしている。
亜里沙のときに胸の底にあった、独りで抱えるしかない心細さが、今はなかった。
紡先輩の瓶も、これで満ちたはずだ。二本目。
ベッドの中で、紡先輩は私の方を見ていた。
「真白」
「はい」
「ループしても、私は覚えてる」
紡先輩は、私から目を逸らさなかった。
「亜里沙も、涼香も、明日には今日を忘れる。あなたが何をしたかも、全部。……でも、私は零式会よ。ループしても、記憶は残る」
「……はい」
「だから」
紡先輩は、私の髪に指を入れて、一度だけ梳いた。
「今日のことも、私が全部覚えていてあげる」
覚えていてあげる。
そう言ってくれる人がいる。
紡先輩は身体を起こし、緑のヘアピンを留め直して、私を見下ろした。
「また明日ね、真白」
また明日。
亜里沙にも涼香にも、明日はリセットされる。
その言葉を、本当の意味で言えるのは、紡先輩だけだった。
紡先輩の明日は、今日と地続きだ。




