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土曜日の朝。
約束の時間より早く着いてしまったのに、亜里沙邸の門はもう開いていた。
インターホンを押す前に、玄関の扉が内側から開く。
出てきたのはお手伝いさんではなく、亜里沙本人だった。
「お待ちしておりましたわ」
亜里沙が、フリルのついたエプロンを、つけていた。
「さ、こちらへ」
私の手を取って、亜里沙は屋敷の奥へ歩き出す。
今日はお手伝いさんはいないようだ。
通されたのは、いつもの応接間ではなく、ダイニングだった。
長いテーブルの端に、二人分の皿が並んでいる。
その上に、卵焼きがのっていた。
形がいびつだった。端が焦げて、形が崩れている。
「自分で作りましたの。真白、いつもお家で卵焼きを召し上がっているのでしょう。庶民の朝ごはん、というものを、わたくしも一度くらい作れなくては」
庶民の卵焼きに、亜里沙が一人で挑んだらしい。
皿の隅には、焦げたウインナーが添えられていた。
切れ込みがうまく入れられなかったのか、タコの形にはなっていなかった。
「タコさんウインナーは、まだ難しかったですわ」
「亜里沙、頑張ったんだね。私のために、ありがとう」
亜里沙が、椅子を引いて私を座らせる。
卵焼きを箸でつまむと、半分が皿に落ちた。
残りを口に入れる。甘くて、しょっぱくて、火が通りすぎていた。
「……おいしい」
「当然ですわ」
食事のあと、亜里沙はまた私の手を引いて、二階の自室へ向かった。
扉が閉まり、鍵のかかる音が部屋に響いた。
振り向いた亜里沙は、もう何も言わずに、私の指先に自分の指を絡めた。
引き寄せもせず、ただ繋いだまま、私を見上げてくる。
私は空いた手を、その頬に添えた。
唇を重ねると、亜里沙は逆らわずに目を閉じた。
指を絡めていた手が、いつのまにか私の背中へ回っていた。
角度を変えると、亜里沙の喉から、声にならない息がこぼれた。
キスをしたまま、私は亜里沙をベッドへ誘う。
よろめいた背中へ腕を回し、ゆっくりと横たえた。
エプロンの結び目をほどき、ボタンを外していくあいだも、亜里沙はずっと私のことを見ていた。
「……真白」
名前を呼ばれただけで、指が止まりそうになる。
今夜、この声も、この呼び方も、亜里沙の中から消える。亜里沙が忘れても、私は覚えている。
だから私は、消える前のものを一つずつ確かめるように、最後の一枚まで脱がせていった。
カーテンの隙間から差す朝の光が、何も身につけていない肌の上を照らした。
亜里沙は腕で胸を隠そうとする。
「見ないで……ください……」
「見るよ。亜里沙が、可愛いから」
私は亜里沙の両膝に手をかけ、ゆっくりと胸のほうへ引き寄せた。
膝が開いて、お嬢様が、誰にも見せたことのない格好で、朝の光の真下にさらされる。
亜里沙は両手で顔を覆い、「見ないで」「はしたない」と繰り返した。
それでも、指の隙間から覗く目は、私がどうしているのかを、確かめずにいられない。
私はその肌へ、唇を寄せた。
亜里沙の声が、肌をなぞるたびに掠れて、やがて意味をなさなくなる。
私が触れるたびに、亜里沙の腰がこらえきれずに跳ねた。
「やぁ……っ、恥ずかしいのに……!」
逢坂家の娘が、と泣きそうに訴えながら、それでも亜里沙は止まらない。
気づけば、私の腕の中で、何度も高みへ押し上げられていた。
こらえようのない波が、引いてはまた、亜里沙を呑み込んでいく。
それが何度目かも分からなくなった頃、亜里沙の脚から、力が抜けていった。
私は、開いた脚をそっと下ろし、震える彼女を、胸の中に収めた。
「はぁ……っ……真白……っ……」
力の抜けた亜里沙が、私の肩に額をうずめてきた。
「真白の、せいですわ……わたくし、こんな……こんな、おかしな身体に、なってしまいましたの……」
上ずった声で言いながら、亜里沙は私の腕を掴んで放さない。
「おかしくないよ」
「嘘ですわ……! あんな格好で、何度も……はしたない、ですわ……っ」
「恥ずかしかった?」
「……当たり前ですわ。なのに……止められなかったんですもの……」
「亜里沙、可愛かったよ」
「……っ、ずるいですわ、真白は」
すねた声が、私の心を温かくする。
私は、その温かさを覚えておこうとした。
亜里沙が忘れても、私が忘れずにいれば、この朝はなかったことにならない。そう言い聞かせるように、腕に力を込めた。
亜里沙の息が、少しずつ凪いでいくのが、腕を通して伝わってきた。
亜里沙の瓶は、これで満タンになったはずだ。一本目。
ベッドの中で、亜里沙は天井を見ていた。
「次は、夏休みですわね」
声が、まだ少し掠れている。
「真白は、夏休み、何をなさいますの? わたくし、海にも山にも別荘がございますのよ」
「うん」
「花火、というものを、してみたいんですの」
花火。
亜里沙が、屋敷の庭で手持ち花火を持つ姿を、私は想像した。
「庶民は、河原でなさるのでしょう? でしたら、わたくしも河原で」
「うん」
「真白のお誕生日は、いつですの?」
夏休みも、花火も、私の誕生日も、亜里沙とは過ごせない。
今夜の二十四時に、全部消える。
それを知っているのは、私だけだ。
***
それからしばらく、私たちは何も言わずに、ベッドの中で寄り添っていた。
昼が近づく頃、私はそっと亜里沙の腕をほどいて、身体を起こした。
「もう、行きますの?」
「うん。昼から、家の用事があって」
嘘だった。
昼は紡先輩のところへ行く。
亜里沙は「家の用事」と聞いて、それ以上は訊かなかった。
玄関まで、亜里沙が送ってきた。
扉を開けると、外の光が差し込んだ。
「真白、次のお約束、ちゃんと考えておいてくださいまし」
亜里沙が、一度言葉を切る。
「……約束ですわよ」
「うん」
門を出て、私は振り返らなかった。
背中で、扉が閉まる音がした。
約束、という言葉が、今日はいちばん痛い。




