こんな所で、だめ……
商業科棟の教室は、昼休みの喧騒に包まれていた。
私は廊下の窓から、二年の教室を覗き込む。
生徒たちがグループを作って弁当を広げたり、スマートフォンを見せ合って笑ったりしている中、亜里沙は教室の一番端の席に座っていた。
机の上には分厚い本が置かれている。
周りの生徒は亜里沙の存在を意識しつつも、誰も話しかける者はいない。亜里沙もまた、顔を上げずにページをめくり続けている。
逢坂家の令嬢。その肩書きが、彼女と周囲の間に見えない壁を作っている。
私と初めて出かけた時、あんなに嬉しそうにしていたのは、亜里沙には本当に友達がいなかったからなのかもしれない。
私は、入り口のすぐ近くの席にいた女子生徒に声をかけた。
「ごめん、逢坂さんを呼んでくれないかな」
「えっ? あ、うん」
女子生徒が亜里沙の席へ行き、私のいる廊下を指差す。
亜里沙が顔を上げた。
私と目が合う。
その瞬間、亜里沙は本を閉じ、席を立った。
廊下へ出てくるかと待っていたが、彼女は反対側の後部ドアから教室を飛び出した。
「亜里沙!」
私は急いで廊下を駆け出した。
商業科棟の階段を上る亜里沙の背中が見える。
彼女は振り返らず、さらに上の階へと逃げていく。
階段を三階、四階と上り、ついに屋上へ通じる扉に行き当たった。
亜里沙が扉を押し開け、外へ出る。
私もその後を追い、屋上へ足を踏み入れた。
高いフェンスに囲まれた屋上には、他に誰もいなかった。
亜里沙はフェンスの前に立ち尽くし、肩を上下させて息を切らしている。
「亜里沙、待って」
私が歩み寄ると、亜里沙はフェンスに背を向けた。
その時、昼休みの終わりを告げる予鈴のチャイムが校舎に鳴り響いた。
チャイムの音が消えても、私たちはその場から動こうとしなかった。
「……どうして、追いかけてくるんですの」
「亜里沙が逃げるから」
「逃げたのは、真白の顔を見たくなかったからですわ」
「怒ってるよね。ごめん」
私が謝ると、亜里沙は首を横に振った。
うつむいた彼女の目から、大粒の涙がこぼれ落ちる。
「……わたくしは、お友達ができてすごく嬉しかったんです」
「……うん」
「みんな、わたくしが逢坂の娘だと聞くと、遠巻きにして伺いを立ててきます。誰も、普通に話しかけてくれませんでしたわ」
亜里沙の声が震える。
彼女は手の甲で涙を拭ったが、次から次へと涙が溢れていた。
「でも、真白は普通に接してくれました。わたくしのことを友達って言ってくれて、一緒にお弁当を食べて、手をつないでくれて……本当に、嬉しかった」
「……」
「でも、真白と仲が深まるたびに、わたくしは分からなくなっていきましたわ」
亜里沙が顔を上げ、私を真っ直ぐに見つめる。
その潤んだ瞳には、抑えきれない感情が渦巻いていた。
「お友達以上のことを、求めてしまうんです」
「……」
「真白にはそんなつもりがないかもしれないのに。わたくしだけが、もっと触れたい、もっと特別になりたいって……強欲になっていく自分が、嫌でたまりませんわっ」
言葉の最後は嗚咽に飲まれ、亜里沙は両手で顔を覆い、その場にしゃがみ込んだ。
亜里沙の手が下り、泣き腫らした顔が見えた。
「真白……?」
――――可愛い。抱きしめたい。
攻略のために、恋人になる。
そう、分かっていて、私は亜里沙に手を伸ばした。
「抱きしめてもいい?」
亜里沙は返事をしなかったが、私から顔を背けなかった。
亜里沙と恋人になれば、四股になる。恋人とは呼んでいない関係もある。
それを分かっていながら、私は亜里沙の前にしゃがみ、抱きしめた。
「わたくしばかりが、こんな……」
「亜里沙ばかりじゃないよ」
「……何がですの」
「私も、亜里沙に触れたい。友達だからじゃなくて、私がそうしたい」
亜里沙の指が、私の制服をつかんだ。
「では、真白は、わたくしとどういう関係になりたいんですの?」
「亜里沙に、私の恋人になってほしい」
この時間だけは、亜里沙を一番特別にしたい。
「本当ですの……?」
「うん」
「……では」
亜里沙は言いかけて、視線を私の口元へ向けた。
そこから先を自分で言うのは、まだできないらしい。
「キスしてもいい?」
「わたくしも、そうしたい、ですわ……」
私は亜里沙の頬に手を添えた。
涙はまだ残っている。
親指で拭うと、亜里沙がほんの少し顔を傾けた。
軽く唇を重ねて、すぐにほどいた。
亜里沙は目を閉じたまま、私の袖を引いた。
「もう一度」
「うん」
二度目は、離れる間際を惜しむように長く重ねた。
亜里沙の呼吸が近くなる。
私が離れようとすると、亜里沙が追ってきた。
私の方から抱き寄せる前に、亜里沙の腕が背中へ回る。
「真白」
「何?」
「わたくしは、友達にしてもらって嬉しかったですわ」
「うん」
「でも、これからはそれだけでは足りません。ちゃんと恋人として扱って欲しいですわ」
私は返事の代わりに、もう一度キスをした。
角度を変えて、何度も唇を重ねる。
亜里沙が自分から唇を開いたのを確かめてから、私は舌を滑り込ませた。
「んっ……ぁ……」
亜里沙の腕が、私の背中に回る。
私の舌が亜里沙の舌に絡みつくと、彼女は甘い吐息を漏らしながら私にしがみついてきた。
涙のしょっぱい味が、唇の間で甘く溶けていく。
私は亜里沙の身体を抱き寄せたまま、フェンスの方へと押し歩く。
フェンスの下から、笛の音が鳴った。
続いて、複数の足音と、誰かの叫び声が校庭の方から上がってくる。
「んむっ……はぁっ」
キスを離した瞬間、亜里沙は慌てて校舎の方と、扉の方を見た。
屋上には誰もいない。
「真白……これ以上は……授業に行かないと……」
「体育の授業、下でやってるね」
「だからこそ、まずいではありませんの……! 先生に見つかったら……!」
グラウンドの方から、また笛が鳴る。
ボールが何かに当たる鈍い音が響き、亜里沙の肩が跳ねた。
「誰も屋上には来ないよ」
「来なくても……空の下で、こんな……恋人になったばかりなのに……」
亜里沙は私から顔を背け、フェンスへ両手をついた。私はその背中を抱きしめた。
——いけないと思う。でも、止まれなかった。
恋人になったばかりの亜里沙が、どんな顔をするのか、もっと見たかった。
「待ってくださいまし……こんな格好、恥ずかしすぎますわ……! 下の生徒に……見えたら……!」
「じゃあ、今我慢できる?」
「……うぅ」
亜里沙はそう言って、フェンスから離れなかった。
私は首筋へ唇を寄せ、耳たぶを軽くなぞった。
「ひゃんっ……!」
掠れた声が屋上に広がる。
校庭から「よし!」という掛け声が上がり、彼女は唇を結んだ。
声を我慢しようとする横顔が、たまらなく愛おしかった。
私は唇を首筋から鎖骨へ這わせながら、胸元に回した手でブラウスの上から形を確かめる。
「あっ……んっ、はぁ……っ」
布越しでも熱が掌に伝わる。
風が吹くたび、制服の襟が揺れた。
「真白……恥ずかしいですわ……!」
「恋人同士だから、恥ずかしくないよ」
私はブラウスの隙間へ指を入れ、素肌に触れた。
冷たい風と、火照った肌の温度差を感じる。
「んっ……ああっ……!」
ゆっくり撫でると、亜里沙の身体がフェンスへ押しつけられる。
私は手を下へ滑らせ、スカートの裾を捲り上げた。
午後の日差しに晒された腿が露わになる。
「見られますわ……! 体育の子が上を見たら……!」
「見られても、亜里沙は我慢できないでしょ」
意地悪を言いながら、自分でも止められないと気づいていた。
亜里沙が乱れるほど、私の中の何かも溶けていく。
亜里沙は膝を擦り合わせようとして、私の膝に阻まれた。
私はスカートの中へ手を入れ、太ももの付け根を押さえる。
「ひゃっ……! そこは……だめですわ……!」
外の風に晒されているのに、亜里沙の体はどんどん熱くなっていく。
校庭からは、笛の音や、誰かを呼ぶ声が、途切れずに届いていた。
誰かが見上げれば、すぐに気づかれてしまう。
「だめ……こんなところで……っ、見られて、しまいますわ……っ」
「大丈夫。誰も気づかないよ」
囁きながら、私は手を止めなかった。
亜里沙の声は、もう抗議の形を保てなくなっている。
風と一緒に漏れる息が、少しずつ高く、短くなっていく。
校庭で、ひときわ大きな歓声が上がった。
その歓声に紛れて、亜里沙の体から力が弾けた。
「あっ……! また……止まりません、わ……っ!」
こらえていたものが、抑えられないまま、何度も零れていく。
一度ではおさまらない。亜里沙はそのまま、私の腕の中へ崩れ落ちた。
「はぁ……っ……はぁ……っ……」
亜里沙は私の腕の中で震え続けた。
風が腿を冷やし、汗と一緒に吹き抜けていく。
亜里沙は足元を見たまま、スカートの裾を握った。
「……ま、真白……また……やってしまいましたわ……」
「そうだね」
「どうしましょう……」
亜里沙の声が上ずり、涙がこぼれた。
恋人になったのに、また泣かせてしまった。
「うぅ……私はハンカチで身体を拭きますわ」
「授業が終わる前になんとかしよう。私が拭いてあげる。ハンカチ貸して」
「そんなことより……わたくし……また、こんな子に……!」
亜里沙は顔を覆った。
私は後ろから抱きしめたまま、彼女の頬に唇を当てる。
「亜里沙は、亜里沙のままでいいんだよ」
「……ずるいですわ」
「うん」
「そう言われたら……怒れませんの……」
亜里沙は膝を震わせたまま、私の胸に背中を預けた。
荒い息が風に散り、屋上には甘い匂いが残った。
校庭から、また笛が鳴った。
腕の中で、亜里沙の体がゆっくりと力を失っていく。
「……真白」
「うん」
「次に……こんなことするなら……部屋にしてくださいまし……」
「約束する」
そう言って指を絡めると、亜里沙の指先は熱かった。




