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逃げ足だけは一流

 翌朝、教室に入ると、雪乃はもう隣の席で本を開いていた。

 昨日一緒に帰ったことを考えると、何かひとつくらい反応が変わっていてもいい。

 私は自分の席に鞄を置き、いつもより明るく声をかけた。


「あ、雪乃! お――」


 最後まで言う前に、雪乃が椅子から立ち上がった。

 私に視線を向けないまま本を鞄に入れ、教室の出口へ向かう。


「えっ? 待って、私まだ『おはよう』の『お』しか言ってないよ!? どこ行くの、もうすぐ朝のホームルーム始まるよ!?」


 声を張り上げるが、雪乃は無言のまま教室のドアを通り抜け、廊下へ消えていった。


「無言で教室出て行っちゃった……。私、挨拶しただけなのに……」


 私は伸ばしかけた手を彷徨わせたあと、力なく机に突っ伏した。



***



 二時間目が終わると、廊下に移動教室へ向かう生徒たちが流れ出した。

 朝は逃げられたけど、今度こそ。

 私は廊下の角を曲がったところで、自動販売機の前にいる雪乃の背中を見つけた。


「おーい、雪乃! 次の移動教室――」

「ッ!」


 雪乃の肩がビクッと跳ねる。

 次の瞬間、彼女は信じられないほどの猛ダッシュで反対側の階段へ向かって走り出した。


「速っ!? 待ってよ雪乃!」


 私が駆け出した時には、もう雪乃の姿は階段の踊り場に消えていた。

 私は廊下の真ん中で息を切らしながら、逃げていった方向を呆然と見つめるしかなかった。



***



 帰りのホームルームが終わり、日直の号令でクラスメイトたちが一斉に立ち上がった。

 昨日は校門で待ったけど、今日は逃がさないようにこの場で直接誘う。

 私は鞄の持ち手を握りしめ、終わりの号令と同時に雪乃の机に立ちはだかった。


「雪乃、今日も一緒に帰――」


 雪乃はあらかじめまとめてあった鞄を掴んだ。

 私の言葉が終わるより早く、机の間を抜け、教室の後ろのドアから飛び出していく。


「ちょっと待って、雪乃! ――あ、また逃げられた!」


 私は誰もいなくなった隣の机に手をつき、がっくりと肩を落とした。



***



「……どういうこと!? 昨日は一緒に帰れたじゃん! あれで少しは進展したって思ったのに!」


 家に着くなり、私は階段を上がって自室へ飛び込んだ。

 ベッドに鞄を放り投げ、閉めたばかりのドアに向かって喚く。


「朝は私が『おはよう』って言おうとした瞬間に席を立たれるし! 休み時間に廊下で見つけて声かけたら、すごいスピードで角を曲がって逃げるし!」


 制服のリボンを乱暴に外しながら、私は言葉をぶつける。


「挙句の果てに、放課後誘おうと思ったら、ホームルーム終わった瞬間に鞄持って忍者みたいに消えたんだけど!?」

「大・前・進、イルカね〜!」


 空中でくるりと宙返りをしたイルカイルが、呑気にヒレを叩いた。


「どこが!? 完全に悪化してるじゃん!」

「案ずるなイルカ! 雪乃の君への好感度は、昨日の下校イベントを経てうなぎ登りで上がってるイルカよ!」

「全然行動に反映されてないんだけど!!」

「これを見るイルカ」


 昨日よりラブエナジーの溜まっている瓶が出てきた。

 溜まっているのは分かる。分かるけど……。

 私はベッドの端に腰掛け、イルカイルを睨みつけた。


「むしろ物理的な距離が開いてる! 昨日までは『失せろ』『キモい』って言いながらも席にはいてくれたのに、今日は視界に入っただけでダッシュで逃げられてるよ!?」

「それこそが好感度爆上がりの証拠イルカ! 『昨日あんなに近くで一緒に帰っちゃったから、顔を見るだけで胸がドキドキして恥ずかしくて死にそう! 無理無理無理逃げる!』という、純度100%の乙女の逃走イルカ!」

「都合のいい翻訳すぎる! どう見ても嫌いな人から逃げる時のスピードだったよ!?」

「照れ隠しがカンストして、ついにツンデレが物理的な全力疾走に進化を遂げたイルカ! これは熱い展開イルカね〜!」


 イルカイルは自分の言葉に感動しているのか、目をキラキラさせている。


「全然熱くない! ヒロインが逃げ出したら、会話すらできないじゃん! フラグもクソもないよ!」

「そこは君の脚力でカバーするイルカ! 恋の駆け引きは文字通り駆けっ子イルカ! ここからは十六夜学園を舞台にした鬼ごっこの始まりイルカよ!」

「そんな体力勝負のアクション要素いらないから!!」


 私はベッドにあったクッションを顔に押し当て、くぐもった声で叫んだ。


「ああもう、一緒に帰れたのは一体何だったの!? これじゃラブエナジーが溜まる前に私の体力が尽きるんだけど……っ!」


 クッションから顔を離し、私は窓の外の暗くなり始めた空を見た。

 昨日の夕暮れ。

 車から私を引き戻してくれた、あの強い力。

 乱暴な言葉とは裏腹に、私の腕を握っていた手の震え。


 やっと少しだけ、心が通じたって……ただの置物じゃないって、思えたのに。


 あの子がどうしてそこまで私から逃げようとするのか。

 私はまた、クッションをぎゅっと抱きしめた。

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