この街、出られないの?
「座りなさい」
「あ、はい」
黒羽先輩は三年C組から少し離れた空き教室に入り、扉を閉めるなり、パイプ椅子を二脚引き出して一つを私の前へ置いた。
私は言われるまま椅子に座った。
「もう一度聞くわ。あなたは佐倉優を知らないのね」
「知らないです」
「佐倉出海は妹」
「はい」
「佐倉家の長女として暮らしてる」
「……はい」
「おかしいわね」
私は作り笑いを浮かべてごまかそうとした。
「まあ、私もちょっとおかしいとは思ってますけど」
「ちょっと?」
「はい。ちょっとどころじゃないかもです」
「佐倉家に、長女はいなかった」
「……え?」
否定しようとして、言葉が出なかった。
佐倉家のことを、本当は私は何も知らない。
出海の姉として朝食を食べて、母親に弁当を作ってもらって、当たり前のように家に帰っているのに。
「少なくとも、私が知っている佐倉家には、出海と優がいた」
もしかして。
私の前の主人公だった人のことなのだろうか。
「あなたは、誰?」
「私は…………」
ごまかすなら、今だった。
黒羽先輩の勘違いだと言う。
でも、黒羽先輩は、出海のことも知っていた。
私より、この世界の佐倉家を知っている。
「多分、その、優さんの代わりに他の世界から来た者です」
黒羽先輩は笑わなかった。
何を馬鹿なことを、とも言わなかった。
私はイルカイルのことを話した。
ラブエナジーを集めなければ帰れないこと。
攻略しろと言われていること。
「なるほど、優がいなくなってそんなことが……」
「いなくなった?」
「優は、いなくなった」
「……」
「みんなは、最初からいなかったことにして過ごしてる。出海でさえ、兄がいたことを忘れてる」
「出海が……」
「なのに、あなたは佐倉真白として出海の姉になっている」
出海の顔が浮かんだ。
朝、私を起こしに来る声。
食卓で平然と姉妹として話してくる距離感。
あれが全部、優という人の場所に私が入り込んだ結果なのだとしたら。
「私、優さんのこと何も知らないです」
「でしょうね。だから、私が知っていることを話す」
「知っていること?」
「私はループしているわ。何回ループしたかは分からないけれど、多分百回以上」
「百回!?」
私は椅子から立ち上がりそうになった。
パイプ椅子の脚が床を鳴らし、黒羽先輩が片手で制した。
「座って。まだ途中よ」
「これで途中なんですか」
「優はこの学園の女性全てと結ばれ、キスをすることでラブエナジーを溜めろと言われていた」
「学園の女の子全て!?」
「この学園は本科だけじゃない。大学も併設されているもの。そして、普通科だけじゃなくて、特進クラス、音楽科、芸能科、デザイン科、商業科、情報科、工業科、農業科まである……」
「え! 広いとは思ってたけどそんなに!?」
黒羽先輩は立ち上がり、黒板の端にチョークで数字を書き始めた。
「本科だけで二千人ぐらいいるわ。そして大学は一万人。つまり、一万二千人。教職員は七百人ほど。その中の独身の女性、彼氏持ちも含まれるわ。そうなると、約六千人の女性が恋愛対象になる」
黒羽先輩が最後に「約六千」と書き、チョークを置いた。
「優が攻略できたのは、そのうち千人ほどだと言っていた。残りは、五千人」
「ごせんにん……」
「え。じゃあ私も、その続きを……?」
「それとも、あなたは男の方を攻略しに来たの? それなら、まだ説明はつくけれど」
「いえ。女の子を、十六人だけって言われました」
「十六人? 六千人じゃなくて?」
「はい。十六人、だけ」
「……変ね。五千人も残っているのに、あなたはたったの十六人。同じ“ループを終わらせる役”には、とても見えない」
黒羽先輩は、私をじっと見た。
「ねえ。それ、誰に頼まれたの?」
「イルカイル……っていう、案内役です」
「そのイルカが、あなたに本当のことを全部話していると、思う?」
昼休みの終わりを知らせる予鈴が、廊下から聞こえた。
「優は、あるループから、突然消えたの。私は何度も探したわ。でもいなかった」
「探すって、世界中を探したとか? もしかしたら疲れちゃって海外に行ってたり……」
「それはないわね。いいわ。一回あなたにこの街がどうなっているか見せましょう」
今の話を授業より優先するのかと聞こうとして、私はやめた。
百回以上ループしている人にとって、今日の午後の授業は、とっくに何度も受けたものなのかもしれない。
***
私たちは学園を出て、駅へ向かった。
駅前のバス停には列ができていて、タクシー乗り場にも客待ちの車が並んでいる。
人通りも多い。昼間の駅前として、何もおかしくない光景だった。
おかしいのは、駅の中だった。
券売機の画面は点いている。自動改札も動いている。発車案内には次の電車の時刻が表示されている。
それなのに、駅員も、改札を通る人も、ホームで待つ人も、一人もいない。
外にあれだけ人がいるのに、誰も電車に乗ろうとしていなかった。
「……誰もいない」
「でしょうね」
「いや、でしょうねじゃなくて。昼間ですよね?」
「昼間よ」
「じゃあ、なんで?」
「この街にいる人間は、外へ出る用事を作らないから」
「そんなことあります?」
「あるから、今こうなっているのよ」
黒羽先輩は改札を通らず、駅前の通りへ戻った。
「駅では分かりにくいわ。境界へ行きましょう」
「境界?」
「隣町との境」
黒羽先輩について、駅前の商店街を抜ける。
店は開いている。店員もいる。買い物をしている人もいる。
駅に誰もいなかったのに、街はいつもの顔で動いていた。
商店街を抜け、住宅街を過ぎると、川沿いの道に出た。
橋の向こう側には、隣町の標識が見える。
「この橋の向こうが境川よ」
「普通に渡れそうですけど」
「そう見えるだけ」
黒羽先輩が橋へ進む。
私は慌てて追いかけた。
欄干の向こうにある隣町の標識が、急に読めなくなる。
橋の先が白く抜け、次の瞬間、私たちは橋の手前へ戻っていた。
「……え?」
「今、渡ろうとしましたよね?」
「渡ろうとしたわ。でも、街の外へ出る前に戻された。この神宮寺の街から私たちは出られないのよ」
「でも、今までどうして誰も気づかなかったんですか?」
「遠出の予定は流れる。外へ行こうとすると、別の用事を思い出す。そう、思考が誘導されているのよ。何者かによってね」
「でも、黒羽先輩はループに気がついているじゃないですか」
「そうなのよね。それが不思議」
「それ、イルカイルに聞いたら分かるかも」
「さっき言っていた、あなたに指示をしたというイルカね」
私はあの腹が立つ顔のイルカのマスコットを思い出した。
「しかし、そんな存在、優に聞いたことないわね。そいつがいるところ、案内してくれる?」
「もちろんです」




