嘘つき
寝室の明かりを落とすと、部屋が静かになった。
ベッドに入り、隣に並んで横になる。
久遠先輩が私の肩に頭を寄せ、指を絡めてくる。
病み上がりで体力が戻っていないのか、久遠先輩はもう眠そうだった。
今日の久遠先輩は、朝からずっと私にくっついていた。
ボタンを留めさせて、私の横で朝ご飯を食べて、キッチンでもソファでも私を離さなかった。
それが嫌だったわけじゃない。むしろ、嬉しかった。
でも、その嬉しさを口にするつもりはなかった。
認めるほど、いつかここを離れる時に、辛くなる気がしたから。
私はいつも通りの顔で、目を閉じようとした。
「真白」
「……はい」
「眠れないの?」
「……ちょっと、考え事を」
「言ってごらんなさい。私が聞くから」
いつもの意地悪な声じゃなかった。
急かすことなく、久遠先輩はただ静かに、私の言葉を待っている。
絡めたままの指が、そっと私の手を握ってくる。
ただ待たれているだけ。
なのに、その沈黙が、私から言葉を引き出していく。
言うつもりなんて、なかったのに。
――この人になら、話してもいいのかもしれない。
そう思ってしまった自分に気づいて、私はそっと口を開いた。
「……私が、他の世界から来たって言ったら。信じますか?」
絡めた指先が、ぴたりと止まる。
「……どういうこと?」
久遠先輩は、もう眠そうじゃなかった。
絡まっていた指がほどけないまま、先輩は私の方へ体を向ける。
私は目を逸らした。久遠先輩の顔を見てしまったら、途中で言うのをやめてしまいそうだ。
「私には、本当の家族が別の場所にいるんです。兄ちゃんと、両親が」
イルカイルや攻略のことまでは言えない。
ただ、ここではない別の場所に自分の帰る場所があること。
ここにいる私は、本来の『佐倉真白』ではないということ。
「佐倉家のお母さんも、出海も、私を家族として扱ってくれます。ご飯を用意してくれて、何も知らないまま私を待ってくれる」
「……」
「先輩とこうして過ごすのも、楽しいんです。今日だって、朝からずっと甘えられて、困って、でも嫌じゃなくて」
私は帰るためにここにいる。
瓶を満たして、ループを終わらせて、元の世界に戻るために、久遠先輩のそばにいる。
「……でも、帰りたいんです」
久遠先輩の手が、私の手を包んだ。
「兄ちゃんにも会いたいし、お母さんにもお父さんにも会いたい。元の家に帰りたい。帰りたいのに、先輩が私の横で朝ご飯を食べたり、料理中に後ろから抱きついてきたりするのが、嬉しかったんです」
「真白」
「その嬉しさが、怖いんです。元の世界に帰りたい。でも、ここで先輩とご飯を食べたり、課題をしたり、同じベッドで眠ったりするのも、楽しいんです」
私は久遠先輩の手を、握り返せなかった。
その手に応えたら、帰らないと約束している形になる。
「先輩のそばに、ずっとはいられません。私は帰りたいから」
久遠先輩はしばらく黙っていた。
それから、私の手を引き寄せ、自分の胸元に抱え込む。
「真白がそう言うなら、そうなのでしょうね」
「……信じるんですか」
「あなたが今にも泣く顔で嘘をつく必要がないもの」
久遠先輩の腕が、私の背中に回る。
「帰りたいのに、私のことを気にかけてくれたのね」
「先輩……」
「寂しかったのに、一人で頑張って来たのね」
私は返事ができなかった。
「しんどかったでしょう、真白」
「……っ」
その瞬間、堪えていたものが崩れた。
涙がこぼれ落ちる。
私は久遠先輩のパジャマに顔を押しつけ、声を殺しきれずに泣いた。
久遠先輩は何も聞き返さず、私の背中を撫でた。
泣き止んだあとも、私は久遠先輩の腕の中から動けなかった。
「久遠先輩との時間、楽しかったです」
口にした瞬間、自分でも変な言い方だと分かった。
朝ご飯を作ったことも、キッチンで調理中に抱きつかれたことも、ソファで本を取り上げられたことも、全部まだ今日のことなのに。
久遠先輩の腕が、私の背中で止まった。
「真白」
「……はい」
「なんだか、別れる前の挨拶ね」
「違います。そういうつもりじゃ……」
「いいのよ。……そんな、今にもいなくなりそうな顔を、しなくて」
その優しさが、かえって苦しかった。
私の自室の机には、五分の四まで満ちた瓶がある。
今日一日、久遠先輩はずっと私に甘えていた。瓶が満ちても、おかしくない。
不安そうな久遠先輩を、最後に、安心させたかった。
だから私は、嘘をついた。
「……ずっと、そばにいます。久遠先輩」
嘘だ。
それでも久遠先輩は、ようやく私の背中を撫でる手を動かした。
「なら、今日はもう寝なさい」
「先輩は?」
「真白が眠るまで起きているわ」
「病み上がりなのに」
「恋人を寝かしつけるくらいはできるわ」
久遠先輩の声は、少しずつ眠気を含んでいった。
私の髪を撫でていた手が止まり、呼吸が深くなる。
私はしばらく待ってから、久遠先輩を起こさないよう腕を外した。
枕元のスマホを手に取る。
画面を点けると、時刻は二十三時五十九分だった。
「……嘘つき」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
久遠先輩は眠っている。
私はスマホを握ったまま、ベッドの上で体を起こした。
日付が変わる。
画面の数字が、二十四時へ進む。
部屋の輪郭が滲み、久遠先輩の寝顔が揺れた。
「久遠先輩」
呼んだ声は、最後まで届かなかった。




