病み上がりの、おねだり
洗面台の鏡に、寝癖のついた自分の顔が映っていた。
私が歯ブラシを口に入れたところで、背後から腕が伸びてきた。
パジャマ姿の久遠先輩が、私の背中に抱きつく。
「ん……おはよう、真白」
肩に顎を乗せ、鏡の中の私と目を合わせる。
私は口をゆすぎ、タオルで口元を拭いた。
「おはようございます。体調はどうですか」
「すっかりいいわ。真白がずっと看病してくれたおかげね」
先輩は私の首筋に顔を埋めたまま離れない。
「あの、動けないんですが」
「いいじゃない。今日は休みでしょ」
「朝ご飯、作りますから」
「……じゃあ、私も着替えるわ」
顔を洗ってスキンケアを終えた後、リビングに戻ると、先輩がパジャマのボタンを外していた。
肩紐だけのインナー姿で私の前に立ち、薄手のカーディガンを差し出してくる。
「ボタン、留めてくれない?」
「……自分でできますよね」
「真白にやってもらいたいの」
私はため息をつき、先輩の前に立つ。
下から順番に、カーディガンのボタンを留めていく。
「真白」
「はい」
「……」
無言で私の頭を撫でてくる。
「終わりましたよ」
「ありがとう」
そのあと私は冷蔵庫から卵を出し、目玉焼きを作り始めた。
パンをトースターに久遠先輩が入れていた。
ダイニングテーブルに朝食のトーストと目玉焼きを並べる。
私が椅子を引いて座ろうとすると、先輩が私の隣に座ってきた。
「ちょ、先輩」
「ん?」
「向かいの席、空いてますよ」
「ここがいいの」
先輩は私の肩に寄りかかり、私の持つフォークの先を見る。
「あーん、して」
「……自分で食べてください」
「病人には優しくしなさい」
「もう治ったんですよね」
「病み上がりよ」
私はフォークで目玉焼きを切り、先輩の口元に運ぶ。
先輩は機嫌良くそれを口に含んだ。
***
昼前、鍋の湯が沸いた。
キッチンでパスタを茹でていると、再び背後から気配がした。
「真白」
「はい」
先輩が後ろから抱きついてきて、私のエプロンの紐を指先で弄る。
「先輩、火を使ってて危ないんですが」
「邪魔はしてないわよ」
「してます。さっきからずっとくっつき虫じゃないですか」
「仕方ないでしょ。昨日まで寝込んでて、構ってもらえなかったんだから」
先輩が私の肩に顔をすり寄せる。
「……できあがるまで、座って待っててください」
「はーい」
昼食後、リビングのソファで文庫本を開いていると、また先輩が隣にやってきた。
私の肩に頭を預け、手元のページを覗き込んでくる。
「……何の本?」
「ミステリーです」
「ふうん」
ページをめくろうとした時、先輩の手が本の上に覆い被さった。
「先輩?」
「私より、そっちが大事なの?」
「別にそういうわけじゃ……」
「活字ばかり見てないで、私を見なさい」
本を取り上げられ、テーブルの端に置かれた。
先輩はそのまま私の膝に頭を乗せ、見上げてくる。
「……今日は本当に、ずっと甘えん坊ですね」
「嫌?」
「……嫌とは言ってません」
私は先輩の頭に手を置き、髪をすいた。
久遠先輩は目を閉じたまま、私の手首を捕まえた。
「真白」
「はい」
「こっちへ来て」
「膝枕、してるじゃないですか」
「足りないわ」
返事をする前に、久遠先輩が身を起こした。
私の膝から頭が離れ、代わりに両腕が首に回る。ソファの背もたれに肩がついた時には、久遠先輩の唇が重なっていた。
「ん……」
キスの仕方だけは病み上がりの人のものではなかった。
唇を離しても、久遠先輩は私の口元を逃がさない。
角度を変えて、何度も塞いでくる。
呼吸しようとして口を開いたところへ舌が入り、昼に食べたトマトソースの酸味が混ざった。
「せんぱ……」
「真白」
名前を呼ばれても、返事をする間もなく唇を塞がれる。
ルームシャツの裾から入ってきた手が、肌の上を撫でた。
「待って、先輩」
私は久遠先輩の手首を押さえた。
止めるために触ったのに、久遠先輩はその手ごと指を絡めてくる。
「嫌?」
「でも、今日は病み上がりですよね?」
「真白が優しくしてくれるなら平気よ」
久遠先輩は私を見下ろしたまま、絡めた指をほどいた。
自由になったはずなのに、私は手を引っ込めなかった。
ルームシャツの裾に入った手も、肌に触れたまま動かない。
久遠先輩は、それを答えと受け取ったらしい。
またキスをされた。
今度は押さえつけるキスではなかった。
唇を重ねて、私が拒まないことを確かめてから、久遠先輩の舌がゆっくり入ってくる。
ソファの上で体勢を変えられ、背中にクッションが当たった。久遠先輩は私の上に覆いかぶさる。
久遠先輩の指が、私のルームシャツの第一ボタンを外した。
そのまま首筋に唇を落とされる。
「んっ……あ」
肩が跳ねる私を見て、先輩が口角を上げた。
「真白はここ、弱いものね」
「だ、誰のせいだと……っ」
言い返そうとした口を塞がれる。
言い返せないまま、私は久遠先輩の肩に腕を回した。
髪に触れると、先輩は私の首筋に頬を寄せてくる。
第二ボタン、第三ボタンと外され、私のルームシャツがソファの上に落ちた。
「先輩も」
「ん?」
「先輩も、脱いでください。私だけ不公平です」
私が先輩のカーディガンのボタンに手をかけると、先輩は私の手元を見た。
「真白が、脱がせてくれるの?」
「……自分で脱ぎたいなら、そうしてください」
「真白がいい」
先輩は私の手に自分の手を重ね、カーディガンのボタンへ導いてくる。
私は下から順番に、先輩のカーディガンのボタンを外していった。
互いの素肌が触れ合うと、先輩の体温が直に伝わってくる。
「真白」
「……はい」
「ちゃんと、私を見て」
言われた通りにすると、久遠先輩はまたキスをした。
先輩の手が私の身体をまさぐり、私も先輩の背中を撫で返す。
「んっ……真白、そこ……」
「先輩だって、弱いところあるじゃないですか」
「生意気よ……っ」
私は目を閉じ、久遠先輩の背中に回した腕に力を込めた。
昼の光をカーテンが遮ったリビングで、私たちは何度も互いの名前を呼んだ。




