離してしまった、手
自室の姿見の前で、私は髪を櫛で整えた。
休日に着る私服は、この世界にやってきた時に最初からあったものだ。
私が選んだものではないが、センスは悪くない。
ワンピースをブラウスの上から着て、鞄の中に財布とスマホを入れる。
階段の下から、出海の声がした。
「お姉ちゃーん、三上さん来てるよー」
私は鞄を掴んで、慌てて部屋を出た。
玄関には、雪乃がいた。
ゆるっとした黒のカーディガンに、プリーツのロングスカート。
雪乃は私を見るなり、壁から背を起こした。
「……遅い。準備にどんだけ時間かけてんの、低能」
「ごめんごめん! 雪乃、すっごく可愛い服着てるじゃん」
「……うるさい。適当に選んだだけだ。……真白と出かけるのに変な格好だったら、嫌だし」
「ふふ、ありがとう。じゃあ、行こう!」
私が靴を履くと、雪乃がドアを開けた。
光の中の横顔が、少し赤い。
指摘したら怒られそうなので、黙っておく。
「……手」
「え?」
「分からず屋。本当に無神経」
雪乃は私の返事を待たずに、私の手を取った。
指を絡めて、あっという間に恋人繋ぎになる。
雪乃は私の手を引いて、門の外へ出た。
出海が玄関の中からにやにやしていたので、私は振り返る前にドアを閉めた。
***
ショッピングモールを一通り回ったあと、私たちはファーストフード店に入った。
トレイの上には、ドリンクが二つと、ポテトの箱。
「真白、店回りすぎだ」
「でも雪乃、ちゃんと全部見てくれたじゃん」
「見てない。……真白が試着室から出てくるたびに、目の前にいたから仕方なく」
「だって、せっかくの休日だもん。あ、ポテト冷えちゃう。食べよ食べよ」
私はポテトを取ろうとした。
その前に、雪乃が一本つまんで、私の口元へ持ってくる。
「口、開けろ」
店内には、学生も家族連れもいる。
以前の私なら、人前でこんなこと、と躊躇っていたかもしれない。
でも、そんなことで動じることは、なくなってしまっていた。
私は、雪乃が差し出すポテトを素直に口に入れた。
「……美味しい」
食べた後、私はドリンクを飲んだ。
「……ねえ、真白」
「ん?」
「最近…………」
雪乃が何を聞こうとしているのか、口に出される前に、分かってしまった。
「……何?」
「……やめた」
「雪乃……?」
「忘れろ。……ポテト、まだ食べるか?」
聞かれずに済んで、ほっとした。そんな自分が、少し嫌になる。
「うん、もらうね」
雪乃は二本目のポテトを取った。
さっきより短いやつを選んで、私の口元へ差し出す。
言いかけた言葉は、もう出てこない。
久遠先輩とのことを聞きたいのだろう。
でも雪乃は、私がどういう状況で行動しているのかを分かっている。
分かっているからこそ、遠慮したのだと思う。
私は差し出されたポテトを食べて、もう一度ドリンクを飲んだ。
***
店を出ると、モールの通路には夕方の人波ができていた。
雪乃は何も言わず、私の指に自分の指を絡ませた。
握る力が、少しだけ強い。
「雪乃、くっつきすぎじゃない?」
「……これくらい普通だ。真白が、どっか行かないようにしてるだけだ」
返す言葉を探しているうちに、前方から黒髪の人影が歩いてきた。
背筋の伸びた立ち姿。黒いカチューシャ。片手には、紙袋が二つ。
久遠先輩だった。
「……あ」
私の手が動いた。
考えるより先に、雪乃の手から自分の手を離してしまった。
久遠先輩の視線が、離れた二人の手へ向かったが、すぐに私の顔へ行く。
「九条院先輩……」
雪乃は私の前へ出た。
雪乃の肩が、私と久遠先輩の間へ入った。
久遠先輩は紙袋を持ち直し、私たちの前で足を止めた。
「あら、奇遇ね。お二人で買い物かしら?」
「は、はい! 休日の買い物です。久遠先輩も、お買い物ですか?」
「ええ。必要な備品を調達しに来たの」
久遠先輩の紙袋には、文具店のロゴが入っていた。
中身はファイルか、封筒か、十六室で使う消耗品だろう。
そこへ、雪乃の声が割り込んだ。
「……こんにちは。真白と買い物中なんで、用がないならいいですか」
「あら、仲が良いのね。でも、ご挨拶がずいぶん刺々しいこと」
「あ、ええと、すみません、生意気で! 気にしないでください」
なんで私が謝っているんだ。
いや、謝らないとこの二人、通路のど真ん中で何か始めそうだ。
雪乃は横目で私を見た。さっき離した手のことを怒っている顔だ。
久遠先輩は私の慌て方を見て、笑った。
「分かっているわ。プライベートの時間を奪うつもりはないもの。私はこれで失礼するわ。月曜日、また零式会でね、真白」
「はい! 失礼します!」
久遠先輩が私の隣を通り過ぎる。
すれ違いざま、紙袋の角が私の鞄に当たった。
そのタイミングで、耳元で囁かれる。
「……言い訳は、月曜日にたっぷり聞かせてもらうわ。あの生意気な女のことも含めてね」
久遠先輩は振り返らず、そのまま通路を進んでいった。
私はその背中を見送っていると、雪乃がこちらを見ていることに気づいた。
「……真白、手」
「……ご、ごめん」
雪乃の手は、まだ私の横にあった。
さっきまで指を絡めていた手だ。
私はその手を取る。今さら繋ぎ直しても、さっき離した事実は消えない。
「ほら、帰ろ、雪乃!」
雪乃はすぐには歩かなかった。
私に引かれた手を見て、それから久遠先輩が去っていった通路を見る。
さっき言うのを我慢していた言葉が、今度は喉元まで来ているだろう。
でも雪乃は、それも飲み込んだ。
代わりに、私の手を握り返す。
さっきより、握る力が強い。
私は雪乃の手を引いて、人の流れの中へ戻った。




