練習じゃ、ない
五月の手が、私の上着を掴んだまま離れない。
唇が一度離れた隙に、私は息を継ごうとした。
「五月、ちょっと――」
言いかけた声は、五月のキスに飲み込まれた。
五月の両手が私の頬を挟んで、逃がさない。
今度は、触れるだけでは終わらなかった。
五月の舌が入ってくる。たどたどしいのに、止まらない。
その必死さに、息が追いつかなくなる。
「ん……」
もう、迷わない。
罪悪感を抱えたままでも、私は五月の気持ちに応える。さっき、そう決めた。
応えれば瓶は満ちて、このループは終わる。それでいい。
五月の唇が、ゆっくり離れた。
「真白」
五月が私を呼んだ。
「私は、真白の気持ちをちゃんと聞きたい」
その言葉で、やっと分かった。
私は、自分の気持ちを曖昧にしたまま五月と向き合っていた。
私のやっていることは、帰るためと言っても、人の気持ちを利用することだ。
でも、五月と関わっていくうちに、五月の声を待つようになった。
放課後に誘われることを期待した。
くだらない話を聞いて、五月が笑う顔を見て、帰り道の途中で別れるのが惜しくなった。
それが恋なのか、愛情なのか、友情なのか、今の私には分からない。
でも、分からないまま逃げることと、分からないまま抱きしめることは違う。
せめて、今の私から出せる言葉で、五月に返さなきゃいけない。
「今、五月にそばにいてほしい」
五月が、息を呑んだ。
「真白……」
五月の指が、私の上着から離れない。
私はその指を外さず、上から包んだ。
「五月が私を求めてくれた時、嬉しかった。五月から離れたくなかった」
「……うん」
「だから、今は五月にそばにいてほしい」
五月は頬を濡らしたまま、笑おうとした。
失敗して、また涙が落ちる。
「私は、練習じゃない」
「うん」
「友達だからでもない」
「うん」
「真白がいい」
五月はそう言って、私の手を引いた。
今度はキスの前に止まる。
「していい?」
私は頷いた。
唇が重なった。
舌が触れ、息が混ざり、どちらがどちらかわからなくなっていく。
五月の手が頬に添えられる。その温かさが、唇の熱と重なって、体の芯まで届く気がした。
五月が私の手を引いて第三準備室の椅子に座らせた。
放課後の第三準備室は静かで、窓の外に夕日が差し込んでいた。
五月が照れくさそうに私の顔を見つめた。
「真白の服、脱がせていい…?」
声が、わずかに震えていた。
私は静かに頷くと、五月が指先でボタンを一つずつ外し始めた。
五月が私の首筋に唇を寄せた。
熱い吐息が肌をくすぐり、ゆっくりと唇が滑り落ちていく。
首から鎖骨へ、鎖骨からさらに下へと、彼女のキスは優しかった。
五月の手が、そっと触れてくる。
熱い掌の感触が伝わり、私は思わず息を詰まらせた。
「気持ちいい…?」
彼女が不安げに上目遣いで聞いてくる。
不慣れで、ぎこちなくて。それでも五月は、何度も私の反応を確かめながら、ただ一生懸命に尽くしてくれた。
どこに触れれば私が反応するのか、五月は手探りで覚えていった。見つけた答えを、ひとつずつ確かめながら。
その不器用な必死さが、私を溶かしていく。
夕日の差す静かな準備室で、私は声を抑えることも、何かを考えることも、できなくなっていった。
恥ずかしいのに、五月の前では、全部さらけ出してしまう。
気づけば私は、こらえることも忘れて、その熱に押し流されていた。
五月は最後まで、離れなかった。
その温かさだけが、満ちて、ゆっくりと引いていった。
やがて震えがゆっくりと収まると、五月がゆっくりと顔を上げ、潤んだ瞳で私を見上げてくる。
「……あたし、ちゃんとできた…?」
その瞳に、照れと不安と期待が混ざっていた。
答える代わりに、私は五月の頬に手を当てて、キスをした。
五月が、目を閉じる。
夕日が第三準備室の床を橙色に染めていた。
——――この時間が、もう少し続けばいいと思った。
***
第三準備室を出る前に、五月が机の端に寄っていた教材の箱を棚へ戻した。
私は空いた椅子を机の下へ戻す。
二人とも、片付けが終わるまで何も言わなかった。
「鍵、返しに行こ」
五月が鍵を手に取る。
「唯花、もう帰ったよね」
「うん。私たちで返そ」
第三準備室の扉を閉める。
廊下にはもう、生徒は残っていなかった。
私と五月は並んで職員室へ向かった。
五月が扉の横で軽く頭を下げ、鍵を返す。
先生は鍵の札を確認して、もう帰るようにと言った。
私たちはもう一度頭を下げて、職員室を出た。
靴を履き替えて外へ出ると、五月が何も言わずに手を差し出してきた。
私はその手を取る。
五月の手のひらは、少し汗ばんでいた。
「ごめん、手、汗かいてる」
「いいよ」
「よくない。恥ずい」
五月が離そうとしたので、私は指を絡め直した。
五月が私を見る。
「離さないの?」
「離したくない」
五月は何か言いかけて、やめた。
代わりに、繋いだ手を揺らす。
そのまま校門を出て、駅へ向かう道を歩いた。
分かれ道まで来ても、私は手を離せなかった。
五月の家は右で、私の家は左だった。
何度も通ったはずの道が、今日は違って見える。
五月が繋いだ手を見る。
それから、私を見る。
「真白」
「うん」
五月の指が、私の手から離れていく。
そして、いつもの顔で笑った。
「また、明日」
私は、どうにか普段通りの顔を作った。
今、何かを顔に出したら、五月に気づかれてしまう。
だから、まっすぐ五月の目を見た。
「また明日」
五月は頷いて、右の道へ歩いていった。
角を曲がる前に一度振り返る。
私は手を振った。
五月も振り返した。
そして、角の向こうへ消えた。
私は左の道へ進んだ。
これで何度目だろう。終わると分かっている関係を、自分の手で終わらせるのは。
五月の「また、明日」だけが、家に着くまで、何度も頭の中で響いていた。
***
自室の時計が、二十三時五十八分を示していた。
制服から部屋着に着替えて、ベッドに座る。
イルカイルは、私の机の横に白い光を集めて現れた。
「お疲れ様イルカ」
私は返事をしなかった。
イルカイルの前に、桃色の液体で満ちた瓶が浮かぶ。
「五月のラブエナジー、満タンイルカ」
分かっていた。
第三準備室で、五月が私の名前を呼んだ時から。
帰り道で手を繋いだ時から。
分かれ道で、五月が「また、明日」と言った時から。
「よかったイルカね」
私は時計を見る。
二十三時五十九分。
「私ね、嘘ついたんだ」
イルカイルが黙る。
「また明日じゃなかったよね」
五月が手汗を気にしていた指。
私の手から離れていった温度。
角を曲がる前に振り返った顔。
「大好きだったよ。五月」
時計の表示が変わる。
「さようなら」
真夜中の光が、部屋を塗り替えていく。
五月が好きだった。
好きな気持ちは、嘘じゃない。
私は五月のことを考えながら、次の四月九日へ意識が吸い込まれていった。




