いつも通りの、五月
月曜日の朝。
唯花と並んで教室へ入ると、五月はすでに自分の席に座っていた。
「おはよう、五月ちゃん」
唯花が声をかける。
五月は顔を上げて、いつもの調子に近い笑顔を作った。
「おはよー」
私にも聞こえる声だった。
でも、私の方は見なかった。
私は自分の席へ向かい、鞄を机の横にかける。
右斜め前の五月の机から、シャープペンシルが転がって落ちた。
拾おうとして、私と五月の手が同時に動く。
五月の指が止まった。
私も止めた。
「……あ」
「………………」
五月は自分でシャープペンシルを拾った。
昨日、私は五月の家から逃げた。
大和とは、と五月が何かを言いかけていた。
私は聞かなかった。
聞こえなかったのではなく、聞かなかった。
一限目が始まっても、黒板の文字は頭に入らなかった。
ノートに日付を書き、次の行に何も書けないまま、授業が終わる。
休み時間、五月は唯花と話していた。
私が席を立つと、五月の声が少し止まる。
戻ると、また話し始める。
五月がどういう気持ちでいるのか分かりやすかった。
分かりやすいのに、私は何もできなかった。
***
昼休み。
購買へ行こうと席を立ったところで、唯花に袖をつままれた。
「真白ちゃん、ちょっと」
「購買行くんだけど」
「パンなら買ってあるよ」
唯花は机の横に置いていた袋を持ち上げた。
中には総菜パンが二つ入っている。
「用意がいいね」
「真白ちゃん、今日絶対逃げると思ったから」
唯花は私の返事を待たず、廊下へ出た。
私は購買へ行く理由を失い、唯花の後を追った。
連れて行かれたのは、階段横の踊り場だった。
人通りはあるけれど、昼休みに長居する場所ではない。
唯花は窓際に立ち、袋からパンを一つ取り出して私に渡した。
「食べながらでいいよ」
「うん。それで何、かな?」
「昨日、五月ちゃんと何かあった?」
包装を開けかけた手が止まる。
「何かって」
「何か」
私は焼きそばパンの包装を少しだけ開けた。
味が濃そうで、今食べる気分にはなれない。
「私が悪い」
「うん」
「それだけ」
「それだけじゃ分かんないよ」
唯花は私が言葉を濁すたびに、次の質問をしてくる。
「五月にひどいことした」
「うん」
「私さ」
言いかけて、何を言おうとしたのか分からなくなる。
元の世界へ帰りたい。
でも、帰るために、どこまで人を傷つけてしまうのだろう。
「……唯花も、私とはもう離れた方がいいよ」
自分でも、投げやりな言い方だった。
そう言えば、唯花が困ることくらい分かっている。
困らせて、呆れられて、離れてもらえれば楽になる。
「五月ちゃん、真白ちゃんに嫌われたかもしれないって思ってる」
嫌われるのは私の方だ。
昨日、五月を求めた。
途中で止めた。
彼氏がいるのにこんなこと、と言って逃げた。
五月が私を嫌うなら分かる。
でも、どうして五月が。
「これ以上は、五月ちゃんが言うことだから。だからね、放課後、第三準備室を借りたの」
「借りた?」
「先生に部活で使いますって言った。だから、今日中に話して」
私は返事をしなかった。
唯花も返事を求めなかった。
ただ、私がパン食べ終わるまで、その場から動かなかった。
***
放課後。
私は第三準備室の前に立っていた。
乗り気ではなかった。
唯花に引っ張られてきてしまっただけだ。
もう、どうなってもよかった。
強いて言うなら、五月に謝りたかったのかもしれない。
だけど、そんな資格もない。
準備室の中には、古い教材の箱と、使われていない椅子が積まれていた。
唯花は鍵を開け、先に中を確認する。
「二人でちゃんと話してね」
「唯花」
「私はもう帰るから」
唯花は私に鍵を渡して、それだけ言って私の横を通り過ぎた。
廊下の先から、五月が歩いてくる。
五月は私を見て、足を止めた。
私は先に中へ入った。
五月も入る。
五月が扉を閉め、二人きりの空間になってしまった。
「……昨日は」
私が先に言った。
「ごめん」
五月の顔が歪む。
「それ、言うと思った」
「ごめん」
「また」
「本当に、私が悪いから」
「そういうのが嫌なんだけど」
五月の声が、そこで少し荒くなった。
私は何も返せなかった。
「真白にキスされたこと、嫌じゃなかった」
五月は鞄の肩紐を手から外し、近くの椅子に置いた。
「嫌じゃなかったし、怖くなかった。最初は、練習とか、友達だからとか、そういう言い訳してたけど」
「五月」
「私、真白の気持ちを考えてなかった」
その言葉に、私は顔を上げた。
「大和の前で背伸びしてるのを、真白に都合よく支えてほしかっただけだった。真白なら分かってくれるって、真白なら大丈夫って、勝手に思ってた」
「違う。私が」
「最後まで聞いて」
五月に遮られる。
私は口を閉じた。
「でも、そうじゃなくなった」
五月は私を見た。
真正面から。
「大和とも別れた」
心臓が、跳ねた。
昨日、聞かなかった言葉。
五月が言おうとしていた言葉。
「真白だけが好きになった」
息の仕方を忘れそうになる。
まっすぐで、嘘のない言葉だった。
でも、その「好き」が本物であるほど、私は自分が許せなくなる。
私は帰るために、この子を攻略対象として、計算して距離を縮めた。
そんな私に、五月は本気で「好き」と言っている。
受け取ったら、私はこの子を、最後まで騙すことになる。
私は何か言おうとして、言えなかった。
「なのに、真白は何も聞いてくれない」
五月の目尻に、涙が滲んだ。
「どうして!?」
責められて当然だ。
私はそれを受け止めるべきだ。
謝って、傷つけた分を全部自分のせいにして、五月が少しでも楽になるなら。
「ごめん」
五月の顔が、さらに歪んだ。
「またそれ」
違う、と言いたい。
でも、何を言っても嘘になる。本当の理由は――こちらの都合で五月の気持ちを利用した、なんて、言えるわけがない。
言えないまま、私はまた「ごめん」に逃げようとして、それを飲み込んだ。
五月が私の前まで来る。
私は後ろへ下がった。古い机に、腰が当たる。
「黙って、一人で全部決めないでよ」
何も言い返せなかった。
五月を利用すると決めたのは、私だ。こんな気持ちにさせておいて、肝心なところで怖くなって逃げたのも、私だ。
その不甲斐なさと申し訳なさで、私はまた、何も言えなくなる。
「責めたいんじゃない。私は、ちゃんと返してほしいの」
五月の声が震えていた。
怒っている。泣きそうになりながらも、私から目を逸らさない。
「私が好きって言ってるのに、ごめんで終わらせないでよ」
言葉が出ない。
本当のことは言えない。嘘で慰めることもできない。
黙っている時間が、そのまま五月を傷つけていく。
「真白」
五月が私の名前を呼ぶ。
私は顔を上げられなかった。
「何か言ってよ」
言える言葉が、ひとつもなかった。
その瞬間、五月が私の制服を掴んだ。
――――次の瞬間、唇を塞がれた。
五月からのキスだった。
練習じゃない。
流されたわけでもない。
五月が、私を求めていた。
五月の唇は、まっすぐだった。打算も、嘘もない。
本物の「好き」だった。
五月が本気であるほど、私のしていることは、ただの裏切りになる。
――それでも、私は帰りたかった。
その身勝手な一心が、罪悪感を押しのけていく。
私は、目を閉じて、五月のキスを受け入れた。
帰るために。最低な私のままで。




