それでも、五月のところへ
結局、雪乃は家に泊まっていった。
何度も求められた。
私は拒むことができず、いつ寝たのかも分からなかった。
目を開けると、カーテンの隙間から昼の光が差し込んでいた。
枕元のスマホを見る。
時刻は十二時を過ぎている。
「……昼じゃん」
声が掠れている。
隣を見ると、雪乃がまだ眠っていた。
昨日、泣いて、怒って、キスして、私を求めた女の子。
私に利用されたと知っても、それでも好きでいていいかと聞いてきた女の子。
その雪乃を見て、私は何も言えなかった。
言えるはずがない。
昨日の私は、雪乃を拒まなかった。
拒まなかったくせに、今、考えているのは五月のことだった。
メッセージが来ていた。
五月からだった。
『今日、遊ばない?』
このまま家にいたら、雪乃は起きる。
昨日の続きを話すことになる。
雪乃は、たぶん私を責めない。
責めないまま、私のことを好きだと言う。
私はスマホをつけ、返信欄を開いた。
『五月の家行ってもいい?』
既読がつく。
返事は早かった。
『もちろん! 待ってるね』
五月らしい文面だった。
明るくて、疑わなくて、私がどういう顔でそのメッセージを送ったのかなんて知らない。
私はベッドから降りた。
急いで顔を洗い、私服に着替え、鞄を持った。
洗面所の鏡に映った自分は、昨日より酷くやつれた顔をしていた。
部屋に戻ると、雪乃はまだ寝ていた。
私はベッドの横に立ち、声をかける。
「雪乃、ちょっと私出かけてくるから」
雪乃のまつげがわずかに動いた。
「ん……」
返事があったのか、なかったのか分からない。
私はそれ以上確認しなかった。
雪乃は次の周回でもまた会える。
そう片付けようとする自分が嫌だった。
***
五月の家に着くと、玄関を開けた五月がすぐに笑った。
「いらっしゃーい。真白、今日なんか眠そう」
「ちょっと寝不足」
「夜更かし?」
「まあ、そんな感じ」
嘘ではない。
嘘ではないけど、その寝不足の理由を五月には言えない。
五月の部屋にはテレビがあった。
ゲーム機がつながっていて、ローテーブルにはコントローラーが二つ置かれている。
ベッドの上にはクッションが積まれ、床には読みかけの漫画が何冊か広がっていた。
「今日はゲームしよ。スマブロ!」
「私、そのゲームやったことないけど大丈夫?」
「大丈夫。あたしもそんな上手くない」
五月はゲームを起動し、片方のコントローラーを私へ渡してきた。
キャラクター選択画面が映る。
五月は迷わず素早そうなキャラを選んだ。
私は見た目だけで選んだキャラにした。
試合が始まる。
私は開始十秒で崖から落ちた。
「えっ、ちょ、何これ」
「真白、ヘタクソ〜!」
「やったことないって言ったじゃん!」
二戦目も負けた。
三戦目はいくらか粘ったけれど、結局負けた。
五月はコントローラーを置き、勝ち誇った顔でこちらを見る。
「真白が負けた!」
「分かってるよ」
「罰ゲーム!」
「なにそれ?」
「こちょこちょの刑だ!」
五月が両手をわきわきさせて近づいてくる。
私はコントローラーを盾にした。
「待って、ゲームの罰にしては原始的すぎる」
「原始の罰が一番面白くていいの!」
五月の手が脇腹に入った。
「ちょっとやめてよ! あはは! くすぐったい!」
「真白、弱っ」
「弱いとかじゃなくて、そこは誰でも無理!」
逃げようとして、私はベッドの端にもたれ込んだ。
五月も勢いのまま乗り出してくる。
クッションが一つ床に落ちた。
笑いながら暴れていた五月の動きが、そこで止まる。
すぐ目の前に、五月の顔があった。
さっきまで笑っていた口元が止まり、視線だけが私の唇を見ている。
私も、同じ場所を見ていた。
五月は何も言わなかった。
代わりに、わずかに顎を上げる。
それは明確に、口付けを待つ仕草だった。
私はそれに応じるべく、五月の唇を自らの唇で塞いだ。
柔らかい感触が伝わる。
五月の手が、私の服の裾を強く掴んだ。
数秒後に一度唇を離すと、五月は潤んだ瞳で私を見上げた。
頬が真っ赤に染まっている。
「……もう一回」
熱を帯びた、ねだる声だった。
私は無言で、二度目の口付けをした。
今度は、触れるだけでは終わらせない。
角度を変え、三度、四度と立て続けに唇を重ねる。
五月の口から甘い吐息がこぼれた隙を突き、私は彼女の唇を割って舌を差し込んだ。
「んっ……ぁ……」
不意の侵入に、五月の肩がびくんと跳ねる。
しかし、私の服を掴む指の力はさらに強くなった。
私は五月の後頭部に手を回し、逃げ場を完全に奪う。
互いの舌が絡み合い、静かな部屋に唾液の混じる水音が響き渡った。
五月の呼吸が次第に荒くなり、口内を蹂躙される快楽に溺れていくのが伝わってくる。
恐怖をかき消すため、私は五月の髪を撫でながら、さらに深く、執拗に舌を這わせ続けた。
息が続かなくなり、五月の体がベッドの上へと沈み込む。
赤く腫れた唇から、甘い声が漏れた。
「真白……」
その声を聞いた瞬間、雪乃の言葉が戻ってきた。
――――私は利用されたんだな。
息が詰まった。
違う。
今は五月を見ている。
そう思おうとした。
でも、イルカイルの瓶が頭に浮かぶ。
あと一回すれば終わる。
目の前には、私のキスを拒まない五月がいる。
このままいけば、これで最後。
――――最低な計算だった。
そんな理屈だけの自分本位の気持ちを抱いているのに、五月はとろんとした顔で私を見ている。
甘い声を求めるように、私の名前を呼ぶ。
「真白……もっと」
五月の指が、私の指に絡んできた。
その瞬間、私は手を止めてしまった。
「……真白?」
私は五月の手から自分の指を外した。
「やっぱり、よくないよ」
建前だった。
でも、本音も混ざっていた。
彼氏持ちの五月を利用するのはよくない。
「彼氏がいるのにこんなこと」
五月の表情が固まる。
「え」
「ごめん」
私はベッドから立ち上がった。
足元に落ちたクッションを踏みかけて、避ける。
鞄を取った。
「ごめん、私、帰る」
「ま、真白! 待って! 大和とは……」
五月が何かを言っていた。
でも、私はドアを開けていた。
五月の言おうとすることを聞かずに階段を降りた。
玄関で靴を履く時、五月の足音が廊下の向こうから聞こえた。
それでも振り返らなかった。
「真白!」
名前を呼ばれた。
私はドアを開け、外へ出た。
***
家までの道を、どう歩いたのかよく覚えていない。
家に着き、自分の部屋のドアを開ける。
雪乃はいなかった。
ベッドの上には、乱れたシーツだけが残っている。
雪乃の鞄も、靴もない。
当然だ。
雪乃がこの家にいる理由がない。
私が出かけると言って、雪乃は寝ぼけたまま返事をした。
起きて、着替えて、帰った。
それだけのことだ。
だけど私は、雪乃がここで待っていてくれることを期待していた。
帰ってきた私を、もう一度受け入れてくれることを期待していた。
「なんで、こんなことしてるんだろう」
声に出すと、部屋の中に残った。
誰も返事をしない。
イルカイルも出てこない。
利用するって決めた。
五月を利用して、瓶を満たして、元の世界へ帰るって決めた。
なのに、罪悪感に押しつぶされて、途中で逃げた。
雪乃には説明した。
雪乃を抱いた。
その次の日に、五月の家へ行った。
五月にも触れて、途中で止めて、彼氏がいるからなんて言って逃げた。
中途半端だ。
誰に対しても、何一つ誠実じゃない。
みんなを傷つけている。
私はベッドの端に座った。
シーツには、微かに雪乃の髪の匂いが残っている。
その甘い香りが、かえって今の私の罪を際立たせていた。
「私、どうすればいいんだろう」
答えは出ない。
私はスマホを机の上に置いたまま、ベッドに横になった。
五月のメッセージも、雪乃の不在も、イルカイルの瓶も、全部見たくなかった。
これ以上、何も脳裏に浮かべたくなかった。




