全部、覚えてる
金曜日の夜。
部屋の机に向かって課題を開いていた私は、十分もしないうちにシャープペンシルを置いた。
無理。
今日はもう、文字をこれ以上読んでいることができない。
原因は分かっている。
漫喫で五月としたことが、ふとした拍子に蘇るのだ。
声を殺していた五月の顔。私の腕を掴んだ、あの指。
気づけば私は、スマホで五月とのトーク画面を開いていた。
最後のやり取りは、待ち合わせの確認で止まったままだ。
『今日ありがとね』。それくらい送れば、五月はすぐ既読をつけるはずだ。
指を入力欄に置いて――そこで、止まった。
こんな「ありがとね」みたいな一言を、私はいつも、友達に送ってきた。
打ちながら、気づく。私は五月のことを、ちゃんと友達だと思っている。
でも、あと一回あの子に触れれば、瓶は満タンになって、私は帰れる。
帰るために、その友達の体を使っているくせに。
今さら、何でもない友達みたいな顔をしようとしている。
私は打ちかけた文字を消して、スマホを伏せた。
――――あと二回えっちすれば、あの瓶が満タンになるイルカ!
昼間のイルカイルの声が、勝手に頭の中で再生される。
漫喫の行為を数えれば、残りはあと一回。
私は課題を閉じ、財布とスマホを手に取った。
コンビニで甘いものでも買えば、少しは頭が動くかもしれない。
そう考えて、部屋を出た。
街灯の下を歩きながら、私はコンビニの白い看板を目印に進む。
店内に入ると、自動ドアの音と一緒に冷房の風が当たった。
プリンをかごに入れたところで、雑誌棚の前に立つ人影が視界に入った。
銀色の髪。前髪の横に留まったピン。
「……雪乃?」
呼んでから、しまったと思った。
でももう遅い。
雪乃は雑誌棚から顔を上げ、私を見た。
雪乃の視線は、私の顔から手元へ移り、かごの中のプリンを見て、また私の顔へ戻ってきた。
「えっと……や、やあ?」
何その挨拶。
もう少し他になかったのか。
雪乃は返事をしなかった。
ただ私を見て、棚の前から動かない。
「どうしたの、雪乃?」
雪乃の目が、そこで変わった。
「……今、なんて呼んだ」
「え?」
「私のこと」
「あ、いや、その。ごめん。馴れ馴れしかったよね」
雪乃は雑誌を棚に戻した。
背表紙が隣の雑誌に当たって、ぱたんと音を立てる。
「新学期になってから、私とあんたは一度も関わっていない」
「え」
「一年の頃、あんたは私のことを三上さんと呼んでいた」
言われて、背中に嫌な汗が出た。
そうだ。
このループでは、雪乃とはほとんど話していない。
少なくとも、名前で呼ぶような関係ではない。
「でも今、あんたは私のことを雪乃と呼んでいる」
「ご、ごめん。ほんと、馴れ馴れしくて」
「そういう話をしてない」
雪乃が雑誌棚から離れ、私の前に来る。
私はかごを持ったまま、雑誌棚と菓子棚の間に挟まれた。
「もしかして、あんた……」
雪乃の声がそこで途切れる。
続きが分かりそうで、分かりたくなくて、私はかごを胸の前に抱えた。
「真白は」
雪乃が私の名前を呼んだ。
「全部、覚えているのか?」
「え? なんの話……」
最後まで言えなかった。
雪乃が私の制服を掴み、そのまま唇を重ねてきた。
かごが腕からずれ、プリンの容器が中で転がる。
レジの方から店員の「いらっしゃいませ」が聞こえた。
「っ、雪乃」
私が離れようとすると、雪乃は一度だけ唇を離した。
雪乃の瞳が、揺れていた。
泣いているのだと気づくまで、少しかかった。
「私は全部覚えてる」
その一言で、体が止まった。
「全部って」
「雨の中で、私を抱きしめてくれたことも」
心臓が嫌な跳ね方をした。
「何度もキスしたことも」
「待って」
「私を愛してくれたことも」
「待って待って待って」
私はかごを棚の端へ置き、両手を上げた。
完全に降参のポーズだった。
いや、降参したい。
何に対してかは分からないけど。
「ど、どういうこと〜!?」
自分でも情けない声が出た。
雪乃は笑わなかった。
笑わずに、私の服を掴んだまま、顔を伏せる。
「真白は、やっぱり覚えているのか?」
「いや、私は、覚えてる。覚えてるけど」
「じゃあ、どうして」
雪乃の指が服を掴む。
強く引っ張られたわけではない。
でも逃げられなかった。
「なんで、私には何も言わなかったんだ」
私は口を開けたまま固まった。
雪乃は覚えている。
雪乃との雨の日も。
空き教室も。
雪乃が私に触れた手も。
私が雪乃に返した言葉も。
全部、無かったことになっていなかった。
「雪乃」
「何だ」
「今日は遅いから、明日話そう」
私はかごを棚の上に置き直し、雪乃の手を服から外した。
外した手を、そのまま両手で包む。
「ここ、コンビニだから。店員さんもいるし」
雪乃は泣いたまま、少しだけ眉を寄せた。
怒った顔をしようとしている。
でも、涙が止まっていないから、全然いつもの雪乃になっていない。
「ね? 明日、ちゃんと話す。約束する」
雪乃は返事をしなかった。
その代わり、もう一度私の服を掴む。
私は雪乃を抱きしめた。
コンビニの雑誌棚の前で。
夜食の入ったかごを横に置いたまま。
泣いている雪乃の背中に手を回す。
「ごめん」
その言葉しか出なかった。
今ここで何を説明しても、きっと足りない。
イルカイルのことも、ループのことも、ラブエナジーのことも。
何より、雪乃が覚えていることに、私自身が追いついていない。
雪乃は私の肩に額を押しつけた。
「明日、本当に話すんだな」
「話す。だから今日は帰ろう」
その後、私はプリンを一つ買い足した。
雪乃に渡すと、雪乃は「いらない」と言いながら受け取った。
コンビニの前で別れる時、雪乃は袋を片手に持ったまま私を見た。
「明日」
「うん。明日」
雪乃はそれ以上何も言わず、駅の方へ歩いていった。
私はコンビニ袋を提げたまま、雪乃の背中が角を曲がるまで見送った。
雪乃は全部覚えていた。
私が終わったと思っていたことを、なかったことにはしてくれていなかった。




