真白を、思い出した
金曜日の放課後。
私――五十嵐五月の部屋に、彼氏の大和がいる。
ローテーブルにはプリントと教科書が広げられ、向かい合って二人きり、週末の課題をこなしていた。
大和は黙々とシャーペンを動かしているが、私は一向にプリントの空欄を埋められずにいた。
分からない箇所があっても、大和には聞けない。
大和は頭が良い。
けれど、教える時は答えまで一気に行ってしまう。
私が途中で止まっていることに気づかない。
『カンマの前で一回切って。名前より、そこで区切るって覚えた方が早い』
真白の声が、勝手に頭の中で再生される。
真白には素直に分からないことを伝えられた。
「五月?」
「あ、ううん。ちょっと考えてただけ」
大和はそれ以上聞かず、自分のプリントへ戻った。
優しい。
だから余計に、私は何も聞けなくなった。
一時間後、大和がペンを置いた。
私も、埋まっていないプリントをとりあえず端へ寄せる。
大和が立ち上がり、私の隣へ座った。
床に置いた教科書が膝に当たり、私はそれをローテーブルの下へ押し込む。
大和が私の顔を見た。
――――キスされる。
その直感の直後、大和の顔が近づき、私の唇を塞いだ。
「んっ……」
最初は、ただ唇が触れ合うだけだった。
大和の手が、ローテーブルの端に置かれる。
逃げ道を塞がれたわけじゃない。
大和は乱暴なことをしていない。
それなのに、大和が顔を傾け、舌が触れた瞬間、私の体は勝手に動いた。
私は大和の胸を両手で押していた。
「あ……ご、ごめん」
大和はすぐに離れた。
怒らなかった。
「違、私が……」
「いや、俺が急だった」
「違うの」
何が違うのか、そこから先が出てこない。
大和のことは嫌いじゃない。
嫌われたくもない。
傷つけたいわけでもない。
なのに、真白のことを思い出した。
薄暗い照明。隣のキーボード音。
真白の指が、私の口を塞いだ。
——声を出したら、聞こえちゃうよ。
あの声が、耳の奥にまだ残っている。
大和のキスは、いつも息を止めて受け入れていた。
真白に触れられた時、私は一度も息を止めなかった。
それどころか——もっと、と思っていた。
好きだと思っていた人にできなかったことが、真白にはできた。
それがどういうことかを、もう誤魔化せなかった。
大和はローテーブルの端に置いてあった消しゴムを指で転がした。
転がって、プリントの端で止まる。
「五月さ」
「ん……?」
「俺といて、楽しい?」
顔を上げると、大和は消しゴムから指を離していた。
質問の意図がうまく掴めなくて、私は反射で答えてしまう。
「楽しいよ。なんで急に」
「即答だ」
「え?」
「もうちょっと、迷ってくれてもよかったんだけどな」
大和が苦笑した。
……見抜かれている。
いつもなら、ここでもう一度笑ってごまかせた。
なのに今日は、作りかけた笑顔が途中で止まってしまった。
「……ごめん」
「なんで謝るんだよ」
「分かんない。けど私、ずっと大和の前で、嫌われないように頑張ってた気がする」
言ってから、自分でも驚いた。
取り繕うのをやめて口にしたのは、たぶん初めてだった。
大和はしばらく黙っていた。
転がした消しゴムを拾って、また置く。
「……正直、薄々は気づいてたよ。五月が俺に気を使ってるの」
「うん」
「でも、気づかないふりしてた。その方が楽だったし」
「……」
「ラブホ行った日さ。五月が直前で逃げてくれて、俺、ちょっとほっとしたんだ」
「えっ」
「無理させてるって分かってたから。で、それに安心する自分が、一番かっこ悪い」
大和はシャーペンを置いて、頭をかいた。
いつも余裕のあるこの人が、言葉を探しているのが分かった。
「別れよっか、俺たち」
「……うん」
頷いた瞬間、自分がほっとしているのが分かって、その自分が嫌になる。
それでも、ずっと喉につかえていたものが、やっと下りていった。
「最低だ、私」
「お互いさまだろ。気づかないふりしてた俺も大概だよ」
大和は荷物をまとめて、玄関で靴を履いた。
「五月といた時間、別に失敗だったとは思ってないからな」
「……うん」
「ジュース一本奢り。それでチャラにしてやる」
「なにそれ」
ふざけた言い方が、付き合う前の大和に戻ったみたいで、私はやっと少しだけ笑えた。
「じゃあな、五月」
「……うん。またね」
ドアが閉まる。
私は部屋へ戻り、ローテーブルの前に座った。
途中までしか埋まっていないプリントを引き寄せる。
大和には聞けなかった問題。
真白なら、たぶん聞けた問題。
頭の中で、真白の声をなぞる。――カンマの前で、一回切って。
私は英文のカンマの前に、ゆっくりと線を引いた。
いつもなら自信がなくて、書いた答えをすぐ消してしまう。
でも今日は、その線を、消さなかった。




