あと、二回
その日の夜。
ベッドの上に寝転がり、天井をぼんやりと見つめていると、不意に部屋の中で破裂音が鳴った。
宙に浮かぶ青色のイルカ、イルカイルが姿を現す。
「今日はお疲れさまイルカ〜! いや〜、すっごくいい雰囲気だったイルカね?」
「……アレって」
「焦らして焦らして、五月が涙目で『早く触ってよぉ』ってねだるところ、ばっちり見てたイルカ! そこで囁いて甘やかすんだから、君も隅に置けないイルカ〜」
「ちょ、ちょっと待って。見てたの? あれ、全部!?」
「サポートのためイルカ! ラブエナジーの気配は、一秒たりとも見逃さないイルカからね」
「最低! プライバシーって概念、ないわけ!?」
顔が、かっと熱くなる。
私は枕を掴んでイルカイルめがけて投げつけたが、青色の体はひらりと宙でかわした。
「そんな照れなくてもいいイルカ〜。おかげで瓶もいい感じイルカ! ……順調イルカ。あと二回えっちすれば、あの瓶が満タンになるイルカ!」
「……あと、二回」
私はイルカイルの言葉を口の中で反芻した。
今日、五月が私のキスを受け入れた時のことを思い返す。
それでも、拒まなかった。
私がもう一度触れれば、五月はまた受け入れる。
その確信を持ってしまう時点で、かなり私は最低だ。
ゲームセンターで、大和くんが音ゲーの筐体を指した時の五月を思い出す。
五月は画面を見ていた。
やりたそうにしていたのに、自分から「やりたい」とは言わなかった。
大和くんに誘われて、ようやくステージへ上がった。
曲が終わったあとも、五月は先に大和くんへ頭を下げていた。
楽しかった、と言えばいいだけなのに。
もう一回やりたい、と言えばよかったのに。
ハンバーガーショップでもそうだった。
五月は大和くんの話に笑っていた。
ポテトをつまんで、相槌を打って、彼女として正しい行動をしていた。
ほんの一瞬、大和くんの視線が逸れた隙に、五月がこっそり肩の力を抜いた。
その横顔で、ずっと気を張っていたのだと分かってしまう。
大和くんがこちらを向けば、五月はまた声を一段明るくして笑う。
――無理してるな、と思った。
好きだから笑っているんじゃない。嫌われたくなくて、正しい顔をしているだけだ。
そんな五月が、私の前でだけ、その顔を脱いでくれる。
それが嬉しくて、同じくらい、たまらなく後ろめたかった。
このまま私が迫れば、五月はきっと受け入れてしまう。
その優しさと脆さに、私は付け込もうとしている。
「あと、君にお願いがあるイルカ」
「珍しい。何?」
「今までのループで関わったヒロインとは、あまり接触しないでほしイルカ」
「……どうして?」
「理由はまあ色々あるイルカ。詳しいことは言えなイルカ! とにかくよろしくイルカ」
「色々って何。零や雪乃に、何かあるの?」
「ノーコメントイルカ」
「……またそうやってはぐらかす」
「私にもいろいろ事情があるイルカ」
いつものふざけた口調なのに、その一瞬だけ、イルカイルの声が少しだけ平坦になった気がした。
イルカイルは空中でくるりと一回転し、一方的にそう告げてきた。
雪乃や零との接触を禁じる理由。
ラブエナジーを溜めろだとか言ってくるこのふざけた世界のことだ、そこには確実に何らかの秘密があるに違いない。
だが、今の私にそれを深掘りする余裕はなかった。
「分かった。そもそも、今は五月のことで精一杯だから他の人と関わる暇ないしね」
「ありがとイルカ!」
「じゃあ、そろそろ寝る」
「おやすみイルカ〜!」
再びポンッという破裂音を残し、イルカイルが消滅する。
部屋には元の静寂が戻ってきた。
――――あと二回。
私は布団を被り、枕元のスマホを手にとった。
画面の明かりが顔を照らす中、メッセージアプリをタップし、五月の連絡先を選ぶ。
前回のトーク画面には、五月が送ってきたスタンプが残っていた。
ネコのキャラクターが両手を上げている。
その下に、私が返した短い返事。
普通の友達のやり取りだ。
けれど今の私は、下心を持ってメッセージを送ろうとしている。
「最低だな、私」
元の世界へ帰りたい。
家族が、兄ちゃんがいる家へ帰りたい。
指先を動かし、短いテキストを打ち込んだ。
『明日の放課後、遊ばない?』
送信ボタンを押した直後、画面の端に『既読』の文字がつく。
そして数秒後には、返信の通知が届いた。
『いいよ〜!』
即座に返ってきた短いメッセージ。
五月らしい返事だった。
私はそれに乗る。
乗ると決めた。
『じゃあ、また明日』
送信してから、スマホを枕元へ置いた。
友達に送るメッセージじゃない。
攻略対象に送るメッセージだ。
そう考えた瞬間、自分で自分が嫌になった。
「でも、帰りたいよ……」
返事はない。
当然だ。
これは誰かに許してもらうための言葉じゃない。
私は布団を被り直し、目を閉じた。




