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第4話 うそでしょ、隣の席

 昇降口で「失せろ」を食らったあと、私は唯花と五月に挟まれて教室まで歩いた。

 引き戸を開けると、黒板の上の時計が予鈴の五分前を指していた。


「真白ちゃんの席、あそこだよ」


 唯花が窓側の列のいちばん後ろを指さす。

 言われたとおりに鞄を下ろそうとして、私は手を止めた。

 隣に、銀色のセミロングがあった。

 三上雪乃だった。

 窓の外へ顔を向け、頬杖をついて文庫本を開いている。

 昇降口で私に「失せろ」と言った当人が、これから毎日、隣にいるらしい。


「……うそでしょ」


 声がもれた。

 雪乃はページから顔を上げない。私が机の横に鞄をかけても、椅子を引いても、同じ行を見たまま動かなかった。


 予鈴が鳴り、担任が出席を取りはじめる。名前を呼ばれて返事をする合間にも、私はちらちらと隣をうかがってしまう。

 一時間目が終わった瞬間、私は隣へ身を乗り出した。


「ね、雪乃。さっきはごめん、いきなり馴れ馴れしかったよね。改めて、佐倉真白です。よろしく」


 雪乃は文庫本のページを一枚めくった。返事はない。


「……次、数学だよね?」


 また一枚、ページが送られる。


「何の本読んでるの?」


 返ってきたのは、紙をめくる音だけだった。

 私が話しかけるたびに、雪乃は本のページを一枚ずつ送っていく。読んでいるのか、私から逃げる口実にしているのか、判断がつかない。


 二時間目と三時間目のあいだの休みにも、私は性懲りもなく話しかけた。結果は同じだった。

 ただ、一度だけ。

 ふと顔を上げた雪乃と、まっすぐ目が合った。目が、確かに私を捉えた。

 あ、と思った次の瞬間には、雪乃はフイッと窓の外へ目を移していた。

 それでも、一瞬、目は合った。完全に存在を消されているわけじゃない。今はそれだけが頼りだった。


 昼休みになると、雪乃は文庫本を制服のポケットに押し込み、誰より早く教室を出ていった。


「三上さん、お昼はいつもどこか行っちゃうんだよね」


 唯花が私の机に弁当箱を広げながら言う。


「誰とどこで食べてるんだろうね」

「ふうん……」


 私は箸を出して、空っぽになった隣の席を見た。


 放課後も同じだった。帰りの号令が終わると同時に、雪乃は鞄を取って教室を出ていく。追いつけなかった。

 結局、初日に雪乃と交わせた言葉は、昇降口で投げつけられた「失せろ」の一回きりだった。



 ***



 自室のベッドに倒れ込み、私は枕に顔を押し付けた。

 その瞬間、枕元で聞き覚えのある声がした。


「初登校はどうだったイルカ?雪乃とはどこまでいったイルカ〜?」

「ちょっと!! どういうこと!? 『失せろ』って言われたんだけど!?」


 顔を上げ、空中に浮かび上がったイルカイルに向かって私は思いきり叫んだ。


 昇降口の「失せろ」に始まり、隣の席での全力無視で終わった一日。何度話しかけても、雪乃が私に向けたのは、ページをめくる音だけだった。思い出すと、もう一度枕に沈みたくなる。


「ツンデレだから仕方がなイルカね〜」


 イルカイルは空中でぱたぱたとヒレを揺らす。


「素直になれないってこと!? だとしても、好きな相手にあんな暴言吐ける? 本当に私のことが好きなんだよね?」


 私はベッドから身を起こし、イルカイルを睨みつけた。


「もしかして、私がこの世界の主人公じゃないって気がついてるんじゃないの?」

「そんなはずなイルカ! ちゃんと記憶改竄はうまく行ってイルカ〜。出海も唯花も、真白のことを身近な人と認識していたイルカよ?」

「それは……そうだけどっ」


 実際、唯花は私を幼なじみとして普通に扱っていたし、出海は家族の顔で私の部屋に入ってきた。


「そもそも根気が足りなイルカ! 一度の『失せろ』で諦めるなんて、主人公としての器が知れるイルカ〜!」

「器とかどうでもいい!」


 私は手元にあったクッションをイルカイルに向かって投げた。クッションはイルカイルの体をすり抜けて床に落ちる。

 ここで私は、イルカイルがホログラムであることに気がついた。

 異世界といっても、私の世界とほとんど同じような場所だ。

 こんな生命体が実在しているのはおかしい。


「私はただの実家暮らしの大学生なの! 家族の待つ家に帰りたいだけなの! なのに、あの一言のあと一日中隣の席で完全な空気扱いされた私の身にもなってよ!」

「空気扱いではないイルカ! 『意識しすぎて視線を合わせられない状態』イルカ! ツンデレイルカよ!」

「いや、どう好意的に解釈したらそうなるの!? 『失せろ』だよ? 失せろ」


 私は頭を抱え、再びベッドに倒れ込んだ。


「もう嫌だ……本当に帰れるのこれ? 今すぐお母さんのご飯食べて寝たいぃぃっ……」


 空中に、あの細長いガラス瓶が現れた。


「……あれ」


 瓶の底に、綺麗なピンク色の液体が少し溜まっていた。

 朝に見た時は、間違いなく空っぽだったはずだ。


「なんで?」

「今日の行動で、君は雪乃の心を満たしたイルカ!」

「い、いつ?」

「分からなイルカ〜! それは自分で考えイルカ!」

「お前、サポートしてくれるんじゃないの!?」

「サポートはするイルカ。でも、恋する乙女の心までは完全解析できなイルカ〜」


 イルカイルは瓶の周りを泳ぎながら、得意げにヒレを振った。


「とりあえず、今日の行動は無駄じゃなかったということイルカね」


 私は空中の瓶を見た。

 全部溜まるまでには程遠い量。

 でも、ゼロじゃない。

 挨拶して、拒絶されて、隣の席で一日中ろくに話せなくて。

 それでも、瓶は薄いピンク色を残していた。


「その元の世界へ帰りたいという強い思いを、そのまま雪乃へのアタックのエネルギーに変換するイルカ!さあ、明日の昇降口で待ち伏せからスタートイルカよ!」

「絶対無理!」

「でも、話しかけないと何も始まらなイルカ! 勇気を出して話しかけイルカ!」


 話しかけるだけでも、進む。

 全部が無視されているわけではない。

 これを満たせば、あの食卓に帰れる。兄ちゃんのいる家に帰れる。

 私はベッドのシーツをぎゅっと握りしめた。


 でも、と握った手をゆるめる。

 今日、教室で一度だけ目が合った時のことを思い出す。雪乃は私を捉えて、それからフイッと窓の外へ逃げた。

 昇降口の「失せろ」も、言うだけ言って、私の顔をろくに見ずに上履きを履いていった。

 怒っているだけなら、もっとまっすぐ睨んでくればいいのに。

 あの子、何から逃げてるんだろう。

 ……いや。考えかけて、私は頭を振った。

 雪乃の事情なんて、今の私には関係ない。私はあの食卓に帰る。それだけだ。


「……帰るためだもんね」

「イルカ?」

「そう、帰るため。帰ることだけを考えよう。うん」


 私は自分に言い聞かせるように呟き、ゆっくりと顔を上げた。


「その意気イルカ!」


 こうして私は、あの近寄るなオーラ全開の三上雪乃に猛アタックする決意をした。

 全部、私が私の日常に帰るためだ。

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