カラオケ、行こ!
放課後、私が教室に戻ると、五月が私の机に数学のノートを置いた。
その上に、冷えた缶ジュースが乗せられている。
「サンキュー真白神! 課題終わったし、打ち上げにカラオケ行こう! 唯花も!」
「私は今日、塾があるんだ。ごめんね」
唯花は鞄を持ち上げ、両手を合わせた。
「そっかー、残念。じゃあ真白、行こ!」
「五月、軽音の練習は?」
「あー、それがさ。組んでたバンド、メンバーの男女が別れて解散しちゃって。今はおやすみ中なんだよね」
「そうなんだ。それは、気まずいね」
「でしょ。だから放課後ずーっとヒマなの。ね、付き合ってよ真白〜」
「私はパス。帰って寝る」
「えー! お願いお願い! 三時間だけでもいいから!」
「その三時間は長い」
「じゃあ二時間!」
五月は合わせた手をさらに高く上げる。
ここまでやられると、断る方が面倒になってくる。
「……二時間だけね」
「やったー!」
五月が両手を上げる。
教室の入口に雪乃がいた。
開けたドアに手をかけたまま、私と五月を見ている。
雪乃は教室へ入らず、そのまま廊下へ戻った。
「真白?」
「あ、ううん。行こっか」
***
カラオケの個室に入るなり、五月は鞄をソファに置き、ドリンクバーのコップを二つ持って出ていった。
私は液晶型のリモコンを手に取り、曲名の一覧を見る。
知っている歌が、一つもない。
よくよく記憶を辿れば、私はこの世界の楽曲を一曲も知らない。
「お待たせ〜。五十嵐スペシャルミックス」
五月が戻ってきて、私の前にコップを置いた。
薄茶色の飲み物が入っている。
上の方だけ、妙に泡立っていた。
「何これ」
「五月特製ドリンク」
「何混ぜたの!?」
「大丈夫。あたしのも同じやつだから」
五月は自分のコップにストローを差し、一口飲んだ。
私も試しに飲んでみる。
「まっず!!」
「うん、これは私が悪かった。ごめんなさい」
私はコップをテーブルの端へ避けた。
五月は笑いながらリモコンを操作して、アップテンポな曲を転送する。
イントロがスピーカーから響き渡った。
私の知らない歌だ。
五月の歌はあっという間に終わった。
「真白、なんで歌わないの?」
「私、流行りの歌とか疎くて……」
「じゃあこれ、『星屑ディスティニー』歌おうよ! 広告でもよく流れてたし知ってるっしょ?」
「知らない」
「マジー!?」
五月はマイクを持ったまま目を見開いた。
「あれ? 真白と前カラオケ行ったことなかったっけ? なんかタンバリンずれててめっちゃ笑った記憶があるんだけど」
「行ったことないよ」
「え、じゃああれ誰だっけ。真白がサビ前だけ全力で鳴らして、そこじゃないって唯花が突っ込んで……」
五月はリモコンの横に置かれていたタンバリンを手に取り、私の膝に乗せた。
金属の部分が、私の制服の上でかしゃりと鳴る。
「ほら、持ち方だけ既視感ある」
「私はない」
「そっか。じゃあ今日が初タンバリンね」
五月はすぐ流した。
私はタンバリンの縁を指で押さえた。
この世界は、佐倉真白が前からここにいたことにする。
カラオケに来たことがあって、タンバリンを鳴らしたことがあって、五月と笑ったことがあるように。
私だけが、その記憶を持っていない。
「でも、私ばっかりが歌うの申し訳ないな〜」
「気にしないで。私はドリンクを飲んでるから」
「じゃあタンバリン係お願いします! ほら、軽音のドラマー舐めんなよ? ズレてたら叩き直すから」
五月は何曲も立て続けに歌い始めた。
どれも私の知らないメロディばかりが続く。
私はタンバリンを鳴らし続けた。
間奏に入ると、テーブルの上の五月のスマホが光った。
五月は歌詞を追いながら画面を見て、すぐ伏せる。
次の曲でも、また通知が来た。
五月はマイクを持ち直し、歌詞を一行飛ばした。
けれど六曲目が歌い終わって、スマホを気にしたようなそぶりをした五月は、歌うのをやめていた。
曲を検索して画面ををスクロールしているのに、次の曲を入れない。
「歌わないの?」
「んー」
五月はマイクをテーブルに置いた。
画面を伏せたスマホを、自分の鞄へしまう。
「…………」
沈黙が続く。私は何かを話した方がいいと思って五月に話しかけようとしたが、その前に五月がようやく口を開いた。
「…………真白ってさ、えっちしたことある?」
唐突な問いに、私はタンバリンを取り落としかけた。
「シャン」という音が膝の上で鳴る。
「い、いきなり何っ!?」
「あれ? 真白って下ネタ耐性ないタイプだっけ?」
五月がクスクスと笑う。
雪乃の唇が、すぐに浮かんだ。
私の名前を呼ぶ声。
私の背中を必死に掴んでいた指。
零が布団の中から腕を伸ばしてきたこと。
キスが深くなって、私が止めなかったこと。
五月がリモコンを片手に、いつもの顔でこっちを見ている。
返答に詰まり、私は口を閉ざした。
「…………」
「ええ!? あるの!?」
「ないよ!」
このループでは、まだ。
私が顔を背けると、五月はリモコンをテーブルに置いた。
「実はさ、彼氏ができたんだよね」
「え?」
「学園の人?」
「違う違う。別の学校の人。友達の友達ってやつ」
二回のループの間、ずっと友達として接してきたけれど、そんな事実は全く知らなかった。
それも当然だ。私はそれぞれ雪乃と零につきっきりだったのだから。
「いつから?」
「三日前」
「最近じゃん」
「告白された時は嬉しかったんだよ。相手は悪い人じゃないし、LINEもちゃんと返してくれるし。デートしてても楽しいし」
「さっきから通知来てる人?」
「うん」
五月は鞄にしまったスマホを取り出した。
「返信、めっちゃ早いんだよね。こっちがスタンプだけ送っても、ちゃんと返してくれる」
「いい人じゃん」
「いい人。歩いててもさ、何も言わずに歩道側代わってくれるし。あたしのしょうもない話でも笑ってくれるし」
「しょうもない自覚はあるんだ」
「あるよ。今日の課題が終わらない話、三回くらい聞かせた」
「優しいね」
「うん。優しい」
五月はグラスの水滴を指でなぞる。
「でも、二人きりになると、彼氏がそういう雰囲気を匂わせてくるんだよね」
「…………」
「私、いっつも茶化して流しちゃうんだけど」
「茶化して流せてるなら、それでいいんじゃ——」
「何回も流すと、こっちが悪い感じになるじゃん。付き合って三日でそういうのって、普通?」
普通、という単語に思考が止まる。
雪乃の髪が頬に触れた感触。
耳元で名前を呼ばれて、返事の代わりに抱き寄せたこと。
零の体温が掛け布団の中にこもって、どこまでが自分の熱なのか分からなくなった夜。
指を絡めたまま、何度も体勢を変えたこと。
だめだ。
今の質問で、その記憶を思い出すな私…………。
私はタンバリンを膝の上で押さえた。
「人それぞれなんじゃないかな。その人にはその人のペースがあるだろうし」
「…………」
「五月が困ってるなら、急がなくていい」
私が告げると、五月は顔を上げた。
「嫌いじゃないんだよ」
「『嫌いじゃない』は、『したい』って意味じゃない」
「……そうだよね」
五月はふっと表情を緩めた。
「じゃあ、今度そういう雰囲気になったら、まだ早いって言ってみる」
「うん」
「真白に聞いてよかった」
テーブルの上で、五月のスマホがまた光った。
ジリリリ、と壁の電話が鳴り響く。
私が受話器を取って応答した。
「あと十分だって」
「じゃあ、最後にもう一曲歌っちゃおうかな!」
次の曲のイントロが流れ出し、五月は再びマイクを握った。
明るい曲だった。
私はタンバリンを持ち直し、サビに合わせてタンバリンを鳴らした。




