残った、約束の曲
スマホの画面を点けると、通話履歴に霧島零の名前は残っていなかった。
ベッドの上で膝を立てたまま、私は親指で履歴を上から下までなぞる。
雪乃の時と同じ。
零の時も、同じ。
通知欄には、天気予報と、出海からの「朝ごはん冷めるよ」だけが並んでいた。
「もう疲れた……」
そう言ってから、私はスマホを枕元に置いた。
昨日の夜、零は私に電話をくれた。
明日は学園に行く。
お昼休み、私のピアノ聞いてくれる?
もちろん。
約束だよ。
そこまで言ったのに、通話履歴には何も残っていない。
私だけが、その約束を覚えたままベッドの上にいる。
もう攻略とか、ラブエナジーとか、瓶とか、そういう単語を聞きたくなかった。
誰かに好かれて、その子が前に進んで、私はその続きを失う。
それをあと十四回。
数えるだけで、気が遠くなる。頭が痛い。
「真白〜? ごはん、ほんとに冷めるよ〜」
「起きてる!」
私は部屋のドアに向かって返した。
その返事にかぶせるように、机の横に白い光が浮かんだ。
ムカつく顔をしたイルカのホログラム。
イルカイルが、胸びれを振っている。
「今日は喋らないで」
「まだ何も言ってなイルカ」
「喋ってるじゃん」
「おはようイルカ、真白。次の攻略候補について、非常に有益な提案があるイルカ」
「今日は無理」
「まだ候補名を言ってなイルカ」
「攻略とかそういうの、今は何も考えたくない」
「真白、帰るためにはあと十四人分のラブエナジーが必要イルカ!ちょっとずつでも進んでイルカ!ここでぐだぐだしても何にもならなイルカ」
「そんなの、分かってる!」
分かっているから嫌だった。
それなのに、私の手はベッドの端に置いた制服へ伸びていた。
シャツを取る。
袖に腕を通す。
ボタンを留める。
やる気なんて、爪の先ほどもない。
それでも体は、学園へ行く支度を始めている。
主人公枠。行動が補正される。
イルカイルが言っていたことが、頭をよぎる。
私が自分で選んでいるのか、世界に背中を押されているのか、もう分からない。
「はぁ……」
ため息をついたまま私は制服に着替え、鞄を持って階段を降りた。
***
唯花と一緒に登校し、教室のドアを開けると、まず雪乃と目が合った。
雪乃は自分の席に座ったまま、こちらを見ていた。
声をかけてくるわけではない。
睨むわけでもない。
ただ、こちらを見ている。
名前を呼びそうになって、やめた。
今の雪乃には、私と過ごした時間は残っていない。
そう思ったところで、五月が私の机に突っ伏して叫んだ。
「助けてください真白様!」
「おはよう、五月。朝からどうしたの」
「実は、春休みの数学の課題、まだ終わってなくて……。部活に打ち込みすぎて、すっかり忘れてたんだよね〜」
「五月って、なんの部活してるんだっけ?」
「何言ってんの真白! 春休みのライブ、見に来てくれたじゃん!」
「ライブ?」
隣で唯花が頷く。
「五月ちゃんのドラム、かっこよかったよね」
どうやら五月は軽音部らしい。
そんな話を聞きつつも、五月が両手を合わせて拝み倒してくる。
前の周回で、私はこんな五月を見ていない。
零の名前を聞くのに必死で、五月のことなんて見ていなかった。
その前は、雪乃に話しかけたせいで、教室中の視線が私の背中に集まっていた。
五月が何か言いかけていたとしても、私は気が付かなかっただろう。
隣の席から、唯花が呆れ交じりにため息をついた。
「もう、五月ちゃんったら。昨日あんなに念押ししたのに」
「唯花ママ〜! お願い、見せて!」
「だーめ。朝から写させてたら、五月ちゃんのためにならないでしょ」
唯花にぴしゃりと撥ね付けられ、五月はあからさまに肩を落とす。
そのまま、私の机へべったりと身を乗り出してきた。
机に顎を乗せ、下から私を見上げてくる。
私は鞄の中を探り、数学のノートを引っ張り出した。
表紙には、見覚えのない私の字で「春休み課題」と書いてある。
開くと、ページの端まで文字と数字が埋まっていた。
私が解いた覚えはない。
でも、佐倉真白の鞄には、提出できるノートが入っている。
私はそのノートを五月の前に置いた。
「放課後、購買のジュース一つ奢りね」
「真白神!! 一生ついていく!」
五月が素早くノートを受け取り、猛スピードでシャープペンシルを走らせ始める。
唯花が横から口を挟んだ。
「真白ちゃん、甘やかしたらダメだよ。また次も忘れるんだから」
これが私の今の日常なんだ。
そう思った瞬間、頭をよぎったのは、別の場所だった。
換気扇の音が鳴る中、スマホでレシピ動画を流しながら料理をする母さん。
ワイヤレスイヤホンをして、推しの配信に夢中で生返事しか返さない兄ちゃん。
ソファでタブレットを片手に、ニュースアプリを延々スクロールする父さん。
大学の食堂で、くだらない話に笑い転げた友達。
うるさくて、特に変わったことなんてない、でも何より落ち着く、私の日常。
私が本当に帰りたい場所は、ここじゃない。
五月が課題をして、唯花が机に座り一限目の準備をする。
その当たり前の朝を見ながら、私も一限目の教科書とノートを出した。
帰りたい。
やっぱり、私は元の世界に帰りたい。
***
昼休みに、私の足は自然と特別音楽室の方へ向かっていた。
特別音楽室の前に立つと、ピアノの音がはっきり聞こえた。
扉の前で、私は掲示板に貼られた古い貼り紙を見た。
いつもと同じ場所、同じ昼休みだけど、新学期に戻った世界。
――――なのに、扉の向こうから聞こえる音は、昨日の夜に零が約束した曲だった。
昨日、零が私に聞かせると言った曲。
私のために弾いてくれた曲。
ループしたんじゃなかったのか。
零の記憶も、電話も、約束も、全部なかったことになったんじゃなかったのか。
それなのに、どうしてその曲が残っているのだろうか。
私は扉の取っ手に手をかけた。
曲が一度、切れた。
零がいた。
ピアノの椅子に座り、私の方に視線を向ける。
昨日、私の袖を引いてキスしてきた子と、同じ顔。
でも、零は私を見るなり、首を傾げた。
「……あなたは、だれ?」
当たり前だ。
ループして、日付が戻った。
零は私と過ごした夜を覚えていない。
私の部屋でアイスを食べたことも、玄関で袖を掴んだことも、電話で約束したことも。
私の中に残っているだけ。
「その曲、いい曲だね」
私がそう言うと、零は鍵盤に触れる前にこちらを見た。
「そう、かな」
零はピアノを弾き始めた。
音が鳴る。
「でも、この曲を弾くと、前向きになれる気がする」
零がそう言って、次々音を鳴らす。
「そっか」
それだけ返すのに、ずいぶん時間がかかった。
零は、私を覚えていない。
私との約束も、私の部屋も、玄関のキスも、電話の声も。
でも、零はこの曲を弾いている。
自分で選んだ音を、弾いている。
私はドアから離れ、壁際の椅子を一つ引いた。
「少しだけ、聞いていっていい?」
零は、ピアノの方を向いたまま短く頷いた。
「うん」
私は椅子に座った。
弁当箱は教室に置いたまま。
それでも今は、ここで聞く。
零が前を向けると言った曲を。
私がやったことが、全部なくなったわけじゃないと、もう一度確かめるために。
零の指が鍵盤を押すたびに、音が音楽室に広がった。




