やだ
門をくぐると、玄関の照明がついた。
靴を脱ぐ前に、お母様が言った。
「転校させます」
私は玄関の段差の前で止まった。
「……お母様」
「もう決めました。十六夜学園には連絡します」
「やだ」
口から出た後で、言ってしまったと思った。
お母様は、私の言葉を正すように私の名を呼んだ。
「零」
「やだ。転校したくない」
「あなたは今日、自分が何をしたか分かっているの?」
「分かってる」
「いいえ、分かっていません。課題曲を放り出して、おかしな曲を弾くなんて。誰に吹き込まれたの」
私は、そこから上がらなかった。
鞄の肩紐が、手のひらに食い込んでいる。
「…………」
「やはり、あの子なのね」
「違う」
お母様の声が止まった。
私は鞄を下ろし、玄関の床に置いた。
「真白が弾けって言ったからじゃない」
「なら、どうして」
「真白に聴いてほしかった」
「それが、あの演奏をした理由? あなたはピアニストになるの。余計なものに触れている暇はありません。明日から、学校へは行かせませんから」
「やだ」
「部屋で練習しなさい」
「やだ」
私は鞄を肩に掛け直した。
玄関の奥へ進まず、外へ向き直る。
「どこへ行くつもり?」
ドアを開ける前、私は一度だけ振り返った。
「お母様の曲は弾ける。でも、私は、私の曲も弾く」
それだけ言って、私は家を出た。
門から離れて、住宅街を歩いた。
角を曲がっても、次に行く場所は決まらなかった。
学校は夜には入れない。
真白の家も知らない。
でも、連絡先は知っている。
街灯の下で足を止める。
私はスマホを開いた。
昨日、真白が登録してくれた名前を押す。
『家を出た』
送信してから、また歩いた。
駅へ向かう道は分かる。
でも、駅に着いてから何をすればいいのかは分からない。
すぐに画面が光る。
『は!?』
『今どこ!?』
私は周りを見た。
通ったことのあるコンビニの看板が、道路の向こうに見えた。
『駅前のコンビニの近く』
『動かないで』
『迎えに行く』
私はスマホを握ったまま、コンビニの前に立っていた。
自動ドアが開くたび、店内の明かりと音が外へ漏れる。
しばらくして、横断歩道の向こうから真白が走ってきた。
真白は私を見るなり、スマホを鞄に押し込んだ。
「零!」
「真白」
「家を出たって、何!? 何があったの!?」
「転校するって言われた」
「……え?」
「やだって言った」
「言えたの?」
「うん」
真白は何か言いかけて、私の後ろの道を見た。
それから私の腕を取る。
「どうする? うち、来る?」
「いいの?」
「もちろん。零のこと放っておけないよ」
私は頷き、真白に腕を引かれて歩き出した。
***
零を連れて玄関に入ると、家の中から夕飯の匂いがした。
私は靴を脱ぎながら、廊下の奥へ声をかける。
「ただいま!」
「おかえり〜、お姉ちゃん。って、誰?」
出海がリビングの入口から顔を出し、零を見て固まった。
お母さんもリビングから玄関に顔を出した。
「友達! ねえお母さん、しばらくこの子泊めていい?」
「いいわよ」
この世界のお母さんは躊躇わずに承諾してくれた。
私の行動に都合よく反応するようにイルカイルが暗示か何かをかけているのだろうか。
「まず上がって。ご飯、食べよう?」
私が言うと、零は迷ってから頷いた。
「食べる」
母さんは頷き、出海に皿を一枚出すよう言った。
***
翌朝。
零は私の部屋の床に敷いた布団の上で、膝を抱えて座っていた。
昨日の白いブラウスは母さんが洗濯してくれて、今は私の部屋着を着ている。
「眠れた?」
「少し」
「よし」
私はパジャマを脱いで、制服のシャツに手をかけた。
「真白」
「なに?」
「昨日、お母様に言った」
「うん」
「転校は、やだって」
私は返事を考えて、やめた。
偉い、と言えばいいのか。
無茶するな、と叱ればいいのか。
私は制服に着替え終えて、ハンガーにかけてあった私服を零の方へ差し出した。
「今日は私の部屋で休んでて。学校には、私から話すから」
「分かった」
零は短く頷き、私の部屋着に袖を通した。
昨日の発表会の服ではなくなっただけで、ようやく朝が来た感じがした。
私は鞄を持ち上げ、部屋のドアへ向かう。
「じゃあ、行ってくる」
ドアノブに手をかけたところで、後ろから制服の裾を掴まれた。
振り返ると、零が布団の上から身を乗り出している。
指が、私の制服を離さない。
「行かないで……」
その声は、命令を待つ声ではなかった。
零が、今ここで、私にいてほしいと言っている。
「……分かった。休むよ」
私は鞄を床に下ろした。
学校に連絡せず休んでも、たぶん誰も気にしない。
この世界は、私が多少おかしな行動をしても、いつも通してしまう。
だったら今日は、この世界の雑な都合の良さに乗る。
私は零と過ごすことを選んだ。




