ごめんなさい、しか言えない
玄関に入った瞬間、靴を脱ぐ前に足が止まった。
床に、プリントシールがビリビリに破かれて散らばっている。
机の引き出しの奥にしまったはずの、真白と撮ったシールだった。
お母様は、その一部をつまみ上げていた。
「零。これは何?」
「……ごめんなさい」
「謝罪を聞いているのではありません。これは何、と聞いているの」
「……ごめんなさい」
「学校を抜け出して、ゲームセンターへ行ったのね。ピアノの練習をサボって、こんなものを撮るために」
お母様は床に落ちたシールを踏みつけた。
私の口からは言葉が出ない。
「次のコンクールまで、あなたは学校に行く必要はありません。ずっとこの家で、ピアノの練習に専念しなさい」
「……お母様」
「口答えは許しません。あなたは私の言う通りにピアノを弾いていればいいの」
「分かり、ました」
お母様は踵を返し、廊下の奥へと消えていった。
私は床にしゃがみ込み、破れてぐちゃぐちゃになったプリントシールを拾い集めた。
明日から、学校へ行くことはできない。
***
特別音楽室のピアノの前に、零の姿がなくなって三日が経過した。
昼休みになっても、放課後になっても、彼女は学校に現れない。
私は鞄を掴み、放課後のチャイムと同時に教室を飛び出した。
以前、途中まで一緒に下校した記憶を頼りに、零の家へと向かう。
石壁に囲まれた門のインターホンを押す。
数分後、門扉が開き、淡いグレーのワンピースを着た女性が現れた。
零とよく似た顔立ちだが、向けられる視線は鋭い。
「どちら様ですか?」
「あ、十六夜学園の佐倉といいます。霧島さんが三日連続で学校を休んでいるので、どうしたのかと……」
女性の視線が、私の顔で止まった。
すぐに、その目が細くなる。
「あなた……シールに一緒に写っていた生徒ですね」
「え?」
「あなたのせいで、零はおかしくなったのよ。不良が立ち入るゲームセンターに連れ込んで、無駄な時間を過ごすなんて」
淡々とした口調が、私を容赦なく突き放す。
「零は次のコンクールまで、家から一歩も出しません。二度と娘に関わらないで頂きたい」
「待ってください! あれは私が無理やり……」
私の言葉を遮り、女性は乱暴に門の扉を閉めた。
硬質な金属音が響き渡り、施錠の音が続く。
私は閉ざされた門の前で、インターホンに伸ばしかけた手を下ろした。
中にいる零に言葉を届ける手段は、何一つ残されていなかった。
***
数日後。
昼休みに唯花と五月と教室で弁当を食べていた私は、廊下からの視線に気づいた。
顔を上げると、ドアの横に零が立っている。
私は慌てて席を立ち、廊下へと駆け出した。
「零! 学校、来られたの!?」
「家から抜け出してきた」
「抜け出したって……お母さんに見つかったらどうするの」
「……それは……」
零は黙ったまま、ブレザーのポケットから折り畳まれた紙片を取り出した。
私に向かってそれを差し出す。
受け取って広げると、ピアノコンクールの案内チラシだった。
開催日時と会場のホール名が記載されている。
「というか、私のクラス知ってたの?」
「ううん、聞いて回った。普通科の二年生、までは分かっていたから」
「家では大丈夫? 学校に来れていないのはどうして?」
「これ」
零は私の問いに答えることなく、一枚の紙を差し出した。
「早く帰らないとお母様にバレてしまうから」
零はそう言い残すと、踵を返した。
そのまま一度も振り返ることなく、廊下を去っていく。
手元の紙は、ピアノコンクールの案内のプリントだった。
開催日は、五月三十一日、日曜日。
午後十三時のところに、赤い丸が付けられていた。
***
日曜日、私は駅前のホールでチラシを開いた。
午後十三時。
赤い丸の付いた時間を確認してから、自動ドアをくぐる。
受付の机には、出演者名の載ったプログラムが積まれていた。私は一部を受け取り、ページをめくる。
霧島零。
名前の横には、クラシックっぽい曲名が書かれている。
私はプログラムを閉じ、客席へ入った。
ホールの中は、保護者らしい大人がいる。
舞台の中央には黒いグランドピアノが置かれていた。
鍵盤の蓋は開いていて、照明が反射している。
私は後ろの方の席に座り、プログラムを開き直す。
零の順番まで、あと三人。
係の人が舞台袖から出てきて、次の出演者の名前を読み上げた。
「霧島零さん」
客席の前方で、ネイビーのワンピースが動いた。
零のお母さんだ。
背筋を伸ばして座ったまま、舞台だけを見ている。
私は、プログラムを顔の下まで上げた。
いや、隠れてどうする。別に悪いことはしてない。
舞台袖から、零が出てきた。
白いブラウスに、紺のスカート。髪はきれいに整えられていて、いつもの音楽室で見る零より、綺麗だった。
零は客席を見ない。
ピアノの前で礼をして、椅子に座る。
椅子の高さを直し、譜面台のない鍵盤の前で手を構えた。
最初の音が鳴った。
課題曲だ。
何度か音楽室で聞いた曲だった。
一音ずつ、決められた場所へ収まっていく。間違えない。乱れない。
客席の誰かが、感心した顔でプログラムを見直した。
零のお母さんはその姿をじっと見ている。
これが、あの人の望んだ零なんだと思った。
決められた曲を、決められた通りに弾く零。
私が初めて会った時の零。
なのに、途中で音が止まった。
零の手は鍵盤の上にある。
次の音を出せる位置にある。
でも、出さない。
私はプログラムを下ろした。
お母さんが、客席の前方で身を乗り出す。
零は、鍵盤を見ていた。
どうして止まってしまったの?
私が客席から言えることなんて何もない。
零の手が動いた。
次に鳴った音は、課題曲の続きではなかった。
客席がざわつく。
審査員席の誰かが顔を上げた。お母さんは動揺しているのか震えている。
でも、零は弾いた。
あの曲だった。
特別音楽室で、零が「デタラメ」と言った曲。
あの日より、感情的な演奏だ。途中で迷ったまま鍵盤を押した箇所もある。
それでも、零は止めなかった。
客席の誰かが息を飲んだ。
零は弾き直さない。
間違えた音ごと、そのまま次へ進んだ。
私は、背もたれから体を起こした。
これ、私が好きだって言った曲だ。
でも、私に言われたから弾いているんじゃない。
課題曲を止めてまで、零が今ここで選んだ曲だ。
零の指が、零の曲を終わりまで連れていく。
最後の音がホールに残った。
零は鍵盤から手を離し、すぐには立たなかった。
客席の拍手は、ばらばらに始まった。
私は拍手をした。
手のひらが痛くなるくらい、何度も叩いた。
零が立ち上がる。
礼をする前に、客席を見た。
その視線が、私のいる列で止まった。
見つかった。
私は拍手をしながら、声には出さずに口だけ動かした。
来たよ。
零は一度だけ頷いた。
それから、舞台の中央で礼をした。




