「うん」しか、言わない
四時間目の終了を告げるチャイムが鳴るなり、私は急いで購買でパンを買い、音楽科棟へ向かう。
昨日、放課後に特別音楽室を訪ねた時、霧島さんは十七時の門限ですぐに帰宅してしまった。
私は昼休みの時間を利用して、音楽科棟へと足を運んだ。
特別音楽室の扉を開けると、霧島さんはピアノの椅子に座り、弁当箱を譜面台の端に寄せてつついていた。
「霧島さん。お昼、ここで食べてるんだ」
「うん」
返事を聞いてから、私はピアノのそばへ回り、弁当箱の中身を覗き込んだ。
「霧島さんのお弁当、ずいぶん量が少ないね」
「うん」
霧島さんは頷き、最後の一口を飲み込んだ。
箸を置き、弁当箱の蓋を閉めた直後。
ぐう、と音が音楽室に響いた。
音が鳴ったのは霧島さんの腹部からだ。
私は手に持っていたビニール袋を持ち上げた。
「今日、うちのお母さんが寝坊してお弁当作れなかったから、これ購買のパンなんだけど……食べる?」
私が袋の中からパンを一つ取り出して差し出すと、霧島さんは首を横に振った。
「お母様が、市販のパンは添加物が入っているからダメと言っていた。身体に悪いって」
「あのね、添加物が身体に悪かったら、今頃人類は滅んでるよ。大丈夫だから食べてみて」
私がパンを押し付けると、霧島さんは躊躇しながらもパッケージを破り、一口かじった。
咀嚼する口の動きが止まる。
霧島さんは瞬きをした。
「……美味しい」
「でしょ? 購買のメロンパン、争奪戦になるくらい人気なんだから」
霧島さんは無言のまま、パンを夢中で口に運んでいく。
あっという間に食べ終えたのを見て、私は空になったパッケージを受け取った。
「放課後も、またここに来ていい?」
「あなたが望むなら」
相変わらずの返答だ。
それでも、拒絶されているわけではない。
会話が成立した事実を噛み締める。
「とりあえず今はそれでいいか。じゃあ、放課後にまた来るから」
「うん」
頷くのを確認し、私は音楽室を後にした。
***
最後のホームルームが終わると、私は鞄を持って音楽科棟へ向かった。
約束通り特別音楽室の扉を開けると、霧島さんはすでにピアノに向かっていた。
私は壁際のパイプ椅子に座り、ただ流れる旋律に耳を傾けた。
ピアノの音が鳴っている間、私は余計なことを言わなかった。
時計を見ると、針は十六時四十五分を指していた。
霧島さんは鍵盤の上にあった指を止め、ピアノの蓋を閉じ、鞄を手に取った。
「もう帰るの? 一緒に帰ろうよ」
「……あなたが望むなら」
相変わらずの返答とともに、私たちは並んで校門を抜けた。
通学路を歩く。
何度か曲がり角を過ぎても、霧島さんは私の隣を歩き続けていた。
「私の家と同じ方向だったんだね」
「そうなんだ」
相槌が途切れた。
何か話題を探し、私は視線を宙に彷徨わせた。
「音楽科ってどんなところ?」
「普通」
「将来はやっぱり、ピアニストになるの?」
「分からない」
「じゃあ、好きな曲とかはある?」
「特にない」
「学校で仲のいい友達は?」
「いない」
次々に質問を投げかけても、返ってくるのは一言だけ。
全く会話が成立しない。
私が言葉に詰まっていると、不意に霧島さんが足を止めた。
「ここまで」
「え?」
「家、こっち」
霧島さんが指差した先には、石壁に囲まれた門構えの屋敷があった。
「そうなんだ。じゃあ家まで……」
「家に同級生を連れていくと、怒られるから」
「え? なんで?」
私が問い返すと、霧島さんは表情を変えないまま答えた。
「お母様は私が誰かと関わるのを嫌うから」
「どうして……?」
「ピアノが、一番じゃないとダメだから」
淡々と告げられた言葉。
それ以上踏み込む隙を与えない態度に、私は言葉を失う。
背を向けて門をくぐっていく霧島さんの姿を、私はただ見送ることしかできなかった。
***
昼休みの特別音楽室で、私は霧島さんが弁当箱の蓋を閉じるのを待っていた。
私は窓際のパイプ椅子に自分の食べ終わったお弁当箱を置く。
霧島さんは音楽室の椅子に座ったまま、箸を弁当箱の上に載せた後、ピアノに向かい椅子に座った。
それを合図に、私は口を開いた。
「あのさ、零って呼んでいい?」
「いい。じゃあ、あなたのことは……えっと、ムラムラさん?」
「……真白って呼んで」
「分かった、真白」
名前の呼び方を決めると、会話が再び途切れる。
私はパイプ椅子に背中を預け、天井を仰いだ。
「はあ、午後の数学の授業、出たくないなあ。一緒にサボる?」
冗談半分で口にした言葉だった。
「いいよ。あなたが望むなら」
「え?」
私は顔を上げた。
零は鍵盤の上から手を離し、私を真っ直ぐに見つめている。
この子は、私が何を言っても従うのだろうか。
「……じゃあ、サボっちゃおう! 行こう!」
私は零の手を引き、足早に音楽科棟を抜け出した。




