誰も知らない、霧島零
その日の休み時間、唯花や他のクラスメイトに「霧島零という女の子を知っているか」と尋ねて回った。
しかし、返ってくるのは揃って否定の言葉ばかりだった。
全校生徒の中から、顔も知らない一人の人物を自力で探し出すには限界がある。
仕方なく私は帰宅し、部屋で忌々しいあのイルカを呼び出すことにした。
「イルカイル。霧島零のこと、教えて」
「イルイルカ〜! 頼ってくれて嬉しイルカ!」
何もない空間から青い光が弾け、イルカイルが空中で尾ビレを振る。
「霧島零は、この十六夜学園の音楽科に所属する二年生イルカ!」
イルカイルがヒレを振ると、空中にプロフィール画面が開いた。
一人の女の子の立ち絵。
青ラベンダー寄りの短いストレートボブ。
名前欄。
霧島 零。
プロフィール欄には、数字と項目が並んでいた。
学年、十六夜学園二年音楽科。専攻、ピアノ。
誕生日、一月十日。血液型、O型。
身長、156cm。体重、44kg。
スリーサイズ、B79/W54/H80。
「……本当に必要のない情報ばかり出る……」
「スリーサイズは攻略プロフィールの伝統イルカ!」
「滅びて、その伝統」
好きなもの、雨の日の練習室。
苦手なもの、自由、拍手。
趣味、特別音楽室での練習。特技、初見演奏、課題曲の完全再現。
「放課後はいつも、音楽科棟の特別音楽室でピアノを弾いているイルカよ!」
「……音楽科? うちの学校にそんなのあるの?」
「あるイルカ!」
私はこめかみを押さえた。
ゲームの設定はなんでもありだ。
脈絡もなく新しい学科が飛び出してくることに呆れる。
「はあ……。で、その霧島さんを含めて、あと十五人も攻略しないといけないわけ?」
「そうイルカ!」
十五人。到底終わりの見えない数字に、眩暈を覚える。
「……無理。絶対に終わらない」
「そんなことなイルカ! 前回、一番ラブエナジーが溜まったのはいつだったか、振り返ってみるイルカ」
「一番溜まったのって……」
記憶を辿るまでもない。
部屋で雪乃と体を重ねた時間。
シーツの擦れる音、熱を帯びた吐息、肌と肌が触れ合う感触が、瞬時に脳内で再生される。
私は反射的に両手で顔を覆った。
頬に熱が集まる。
「思い出したイルカね? なら話は早いイルカ! 手っ取り早く、すぐにえっちすればいいイルカ!」
「できるわけないでしょー!!!」
私は両手で顔を覆ったまま叫び、イルカイルのホログラムに向かって腕を振り回した。
「会ったばかりの相手に、いきなりそんなことできるわけないじゃない!」
「やってみないとわからなイルカ! ためしに、『えっちしよ!』って聞いてみるイルカ!」
「聞けるかー!」
ふざけた提案に、私は頭を抱えてその場にしゃがみ込んだ。
***
翌日の放課後。
音楽科棟へ向かう途中で、廊下の端に雪乃の姿を見かけた。
雪乃は私と目が合うと、すぐに顔を背けた。
いつもの雪乃だ。
そう思って通り過ぎようとしたのに、視線を感じて、私は一度だけ振り返った。
雪乃はもう、こちらを見ていなかった。
人の気配がない音楽科棟の廊下を進む。
特別音楽室の前に差し掛かると、扉の向こうからピアノの旋律が響いてくる。
ノブに手をかけて回すと、鍵はかかっていなかった。
私はそのまま、ゆっくりと扉を押し開けた。
部屋の中央に置かれたグランドピアノの前に、ホログラムのプロフィールで見たのと同じ、青みがかったボブヘアの少女が座っていた。
鍵盤の上を滑っていた指先が止まり、旋律が途切れる。
少女はこちらへ顔を向けた。
「霧島さん?」
「うん……そうだよ」
静かな声だった。
その顔を見た瞬間、昨日のイルカイルの言葉が頭をよぎった。
『ためしに、『えっちしよ!』って聞いてみるイルカ!」』
断られるに決まっている。
怒られて、軽蔑されて、「最低」と言われる。そうなれば、イルカイルに言い返せる。
ほら見ろ。ゲームとはいえ人の気持ちは、簡単な言葉ひとつで動いたりしない。
私は拳を握り締め、目を閉じて口を開いた。
「あのさ、私とえっちしない?」
言葉が口から出た直後、全身から血の気が引く。
ゲームの中といえど、さすがにこれはない。
一人の人間としてどうかしている。
「……ごめん! そうだよね、無理だよね、忘れて!」
「いいよ」
「…………へ?」
慌てて取り消そうとした私の言葉を遮り、霧島さんは平然と答えた。
「あなたが望むなら、えっち、してもいい」
「は???」
私の脳内から思考が消し飛ぶ。
「えっちって、どうやるのかな? やったことないからわかんないや。脱げばいい?」
霧島さんは立ち上がり、ブレザーのボタンに手をかけて外し始めた。
「待って待って!」
「しないの?」
「しないしない!」
「ムラムラしてたんじゃないの?」
「してないわ!」
私は制服を脱ごうとする霧島さんの動きを制止した。
「えっちは、命令されたからするものじゃないの!」
「でも、えっちしようってあなたは言った。どうして言ったの?」
「それは……」
「命令じゃないの?」
「違う」
「お願い?」
「それも違う!」
「じゃあ、なに?」
「……私が、最低なこと言っただけ」
「最低?」
「うん。最低」
「でも、あなたが望むなら、私はできるよ」
「だから、それがダメなの!」
言葉の通じない相手に、私は頭を抱えた。
このままでは埒が明かない。
「じゃあ、えっちじゃなくて普通に話そう」
「普通って何?」
真顔で問い返され、私は言葉に詰まる。
会話の糸口を掴むため、部屋の中央にあるグランドピアノへ視線を向けた。
「……ピアノ好きなの?」
「お母様が弾けと言うから」
予想外の返答に、私は再び固まった。
「好きかどうかを聞いてるんだけど……」
「好きも嫌いも、よく分からない」
霧島さんはそう言ってから、鍵盤の蓋を静かに下ろした。
「ごめん。時間が来た」
「時間?」
「門限。十七時」
「……十七時?」
「うん。十七時を過ぎると、お母様に怒られる」
「ちっちゃい子の門限じゃん……」
霧島さんは鞄を持ち上げ、私の方へ歩み寄ってくる。
「また来てもいい?」
「いい。あなたが望むなら」
「……そこは、霧島さんが嫌じゃなければ、でいいんだけど」
「嫌じゃない」
「そっか。じゃあ、また来る」
「うん」
「じゃあね、霧島さん」
「バイバイ。ムラムラしてた人」
「ムラムラしてないわ!!」
つい叫んでしまった声が、音楽科棟の廊下に響いた。
霧島さんは振り返らないまま、譜面台の五線譜を片付けた。
それから鍵盤の蓋と窓を順に確かめ、私を先に廊下へ出してから、音楽室の照明を落とす。
鞄から取り出した鍵で、慣れた手つきで扉に施錠した。
「それ、自分で開け閉めしてるんだ」
「特別教室の鍵は、職員室で借りるの。ちゃんと返さないと、先生に怒られるから」
霧島さんは鍵束を握り直し、職員室の方へ歩いていく。
その背中を、私は見送った。
初対面で最低なことを言ったのは私だ。なのに霧島さんは怒らなかった。嫌がることもしなかった。
ただ「あなたが望むなら」と言って、制服のボタンに手をかけた。
攻略しやすい。
その言葉が頭に浮かんだ。
それは私が一番嫌っていたことだ。
相手の意思が見えないから都合がいい、そんな考えは良くない。
早く元の世界に帰りたい。
でも、次にここへ来る時は、あの子の意思をちゃんと聞かないといけない。
鍵を返しに行く律儀な背中が見えなくなるまで、私はその場に立っていた。




