私だけが、覚えている
目を開けた瞬間に広がっていたのは、いつもと同じ天井だった。
私は寝起きのまま体を起こし、部屋の中を見た。
兄ちゃんの部屋ではない。
私の部屋でもない。
お母さんが朝食を作る音も、階段を上がってくる足音もない。
十六夜学園の制服。
昨日まで何度も見た、この世界の自室だった。
帰れたはずだった。
瓶は満タンになった。
イルカイルも、お疲れ様と言った。
なのに私はまだここにいる。
布団を跳ね除けた勢いで、枕が床へ落ちた。
私はベッドから降り、声を張り上げた。
「イルカイル! いるんでしょ!」
「イルイルカ〜!」
叫び声に応じ、天井の角から青いイルカが飛び出してきた。
イルカイルは空中で一回転し、おどけた調子で尾ビレを振る。
「一人目攻略完了イルカ!」
「一人目って、どういうこと……? ラブエナジーを瓶に溜めれば帰れるって言ったじゃん!」
「私は帰れるとは言ったけど、瓶が一本だけとは言ってなイルカ!」
その返答を理解するまで、数秒かかった。
瓶を満たせとは言った。
攻略しろとも言った。
でも、一本だけとは言っていない。
言葉の穴を見つけた瞬間、昨夜まで必死に信じていたものが、足元から崩れ落ちた。
「次の攻略スタートイルカ〜! 次のおすすめは霧島零イルカ!」
イルカイルの口から出た言葉に、私の思考が完全に停止した。
呆然と立ち尽くす私に向けて、イルカイルは意気揚々とヒレを動かす。
「次の攻略って、どういうこと!? また私は雪乃にしたことを、他の誰かに繰り返すってこと!?」
「そういうことイルカね」
「雪乃はどうなるの!? 二股じゃん!」
「そこは安心するイルカ。雪乃とのことは無かったことになってイルカ」
「無かったことに……?」
昨日、玄関で雪乃が言った「また明日」は、もうどこにもない。
雨の中で泣きじゃくる雪乃を抱きしめたことも、私の部屋で課題を広げたことも、机の下で手を繋いだことも。
全部、雪乃の中から消えた。
消えたのに、私の中には残っている。
それが安心だとでも言うように、イルカイルは尾ビレを振っていた。
「瓶にラブエナジーが満タンになる度にこの世界はループするイルカ。ちなみに瓶は残り十五本イルカ!」
イルカイルが瓶を並べて出した。
残り十五本。
同じことを、あと十五回。
誰かに踏み込んで、好きだと言わせて、触れて、満たして、それを全部なかったことにする。
それを聞かされた瞬間、怒鳴る言葉さえ出てこなかった。
私はベッドの脇に立ったまま、空中に並ぶ瓶を見ていた。
イルカイルの言う通り、一五本は空で、雪乃の一本だけが桃色に光っている。
その一本が、私の罪を証明していた。
「とにかく今日からまた一からスタートするイルカ!がんばイルカ!」
机の上に置いてあったスマホを手に取り、画面の電源を入れた。
液晶に表示された日付は――――――四月九日。
新学期の朝へと、世界は巻き戻っていた。
「……どうすればいいんだよ、これ……」
携帯の画面を消し、私は再びベッドに入って掛け布団を頭から被った。
このまま学校をサボって、部屋に閉じこもって、全部を放り出したかった。
けれど、この場所で動かずにいたところで、元の世界へは帰れない。
私は布団から出て、制服へ着替えた。
玄関を出ると、門の前に唯花が立っていた。
「真白ちゃん、おはよう。……あれ、今日、顔色悪くない?」
「寝不足」
唯花は首を傾げながらも、私の横に並んで歩き出した。
私のことを知らないはずの幼なじみ。
それなのに、この世界では私を昔から知っている顔で話しかけてくる。
「真白ちゃん、本当に大丈夫?」
「……唯花」
「うん?」
「今日って、四月九日だよね」
「そうだよ。昨日クラス替え見たばっかりじゃん」
「そっか」
「大丈夫? 寝不足で日付分からなくなっちゃったの? 変な真白ちゃん」
「ちょっとね」
唯花は冗談だと思ったのか、困った顔で笑った。
その日常っぽさが、今は一番つらかった。
***
十六夜学園の校門が見えてきたところで、聞き慣れた軽い声が飛んできた。
「真白ー! おはよ。新学期初日から顔面蒼白じゃん」
五十嵐五月が、片手を上げてこちらへ来る。
「五月ちゃん、真白ちゃん寝不足なんだって」
「初日から? 大丈夫か〜?」
唯花と五月が、いつものように話している。
私は相槌だけ返して、校門へ向かった。
十六夜学園に到着し、唯花と五月と一緒に昇降口で上履きに履き替える。
靴箱の扉を閉めた時、横の列に雪乃の姿が映った。
見慣れた制服姿で、自身の靴箱の前に立っている。
その背中を見た瞬間、名前を呼びそうになった。
「雪――」
出かけた声を飲み込んだ。
雪乃が顔を上げ、こちらをちらりと見る。
私と目が合った瞬間、雪乃は私を睨んだ。
「……何」
冷たい声だった。
雪乃はすぐに靴箱の扉を閉める。
「見ないで。気持ち悪い」
それだけ言って、雪乃は廊下へ出ていく。
「真白ちゃん?」
唯花の声で、私はようやく靴箱の前に立ったままだと気づいた。
「三上さんと、何かあったの?」
「……何か、あったのかな……」
「え?」
「ごめん。なんでもない」
今の雪乃には、私との思い出が残っていない。
少なくとも、私と恋人だったとは思っていない。
私は、全部を覚えている。
顔を赤らめて、ようやく「好き」と言ってくれたこと。
泣きじゃくる雪乃に、初めて口づけたときの、唇の熱。
私の腕の中で流した涙。
雪乃が覚えていないものを、私だけが覚えている。
靴箱の扉を、閉め忘れていた。
「真白ちゃん、体調悪いの? 帰る?」
「大丈夫。帰らない」
「ほんとに?」
「うん。行かなきゃ」
私は上履きを履き直し、唯花と五月と並んで廊下へ出た。
雪乃は最後まで振り返らず、教室へ向かう人の流れに入っていった。




