やっと、帰れる
雪乃はベッドから降りて、脱いだ制服に袖を通し直した。
乱れた髪を手櫛で整え、ベッド脇に置いていたリボンをつけ直す。
玄関へと移動し、雪乃がローファーに足を入れる。
雪乃は外へと踏み出す直前、不意に私の方へと振り返った。
「じゃあ、また明日」
「……」
その言葉を、どう受け止めればいいのか分からなかった。
雪乃にとっては当たり前に来る「明日」が、私にはもう来ない。
「……なんだよ、その顔。具合でも悪いのか」
「ううん。ちょっと、ぼーっとしてただけ」
「ふん。……疲れたなら、ちゃんと寝ろよ」
「うん。雪乃、今日はありがとう」
「礼を言うな。気持ち悪い」
そう言いながらも、雪乃はすぐにはドアを開けなかった。
数秒、何か言いたげに私を見て、それから、ふいと顔を背ける。
「……また明日。遅刻すんなよ、低能」
「うん。また明日ね」
雪乃はいつもの口調で言い残し、玄関のドアを開けて家の門をくぐった。
私はその姿が見えなくなるまで見送り、ゆっくりと扉を閉めて鍵をかけた。
***
その夜の食卓は、いつも通りだった。
この世界のお父さんは缶ビールを開け、この世界のお母さんは出来たての肉じゃがを大皿で食卓に並べる。
向かいの席では、この世界の妹の出海が我先にと唐揚げを取っていた。
「お姉ちゃん、それ食べないなら、もらうね」
「あ、こら。一個は残してよ」
「えー、遅いほうが悪いんだよ」
出海が舌を出して笑う。
お母さんが「二人とも行儀が悪い」と苦笑して、お父さんはテレビのニュースに相槌を打っている。
なんでもない、いつもの夕食だった。
でも、この食卓を囲むのも、たぶん今日が最後になる。
帰れば、この家族とも、もう二度と会えない。
私は自分の皿の唐揚げを一つ、出海の皿にのせてやった。
「……どうしたの、急に」
「べつに。今日は機嫌がいいの」
出海は不思議そうにしながらも、嬉しそうにそれを頬張った。
その無防備な横顔を、私はしばらく見ていた。
***
夕食を終えて自室に戻ると、部屋の中央でイルカイルがぐるぐる回っていた。
「お疲れ様イルカ!」
イルカイルがヒレを動かすと、光を放つガラス瓶が現れる。
瓶を満たす桃色の液体は、最上部のラインに完全に到達し、満杯になり光っていた。
「ラブエナジー、満タンイルカね!」
「……本当に、これで終わりなんだよね?」
「大丈夫イルカ! 瓶は完全に満杯イルカ! これ以上の追加イベントは、ファンディスクに期待イルカね!」
「ファンディスク!? 流石にそこまでは付き合いきれない!」
「まあ、この世界のシステム的にファンディスクは……おっと!なんでもなイルカ!」
「それで、これから私はどうなるの?」
「瓶が満ちた後の処理は、二十四時に行われるイルカ。つまり、次の日イルカね」
「処理って何?」
「実は詳しいことは分からなイルカ!」
「分からないって、ナビゲーターなのに!?」
「私は組織の末端だから、上のことはなにも知らなイルカね〜」
「組織って……」
「おっと、それ以上は話せなイルカ」
「まあいいや。とにかく、寝て起きたら何かが起こるんだね?」
「まあ〜、そういう感じイルカね」
「私は疲れた。今日はもう寝る」
イルカイルはベッドに横になった私を見ると、光の粒子となって霧散した。
私はベッドの上に体を投げ出し、天井の木目を見つめた。
「やっと、帰れるんだ……」
夕飯の時間まで横になるつもりで、私は布団を被った。
目を閉じると、元の世界の様々な光景が脳裏に浮かんできた。
リビングで夕飯の支度をするお母さんの後ろ姿。
居間で新聞を広げているお父さん。
大学の講義室で他愛のない話を交わした友人たちの笑い声。
そして、アニメのグッズで埋め尽くされた散らかった自室で、アニメキャラへの愛を喚き散らしていた、大好きな兄ちゃんの姿。
あの何よりも愛おしかった、当たり前の日常。
やっと戻れる。
しかし、記憶を辿る意識の最後に、まぶたの裏へと浮かび上がってきたのは、別の顔だった。
雨の中でびしょ濡れになりながら泣きじゃくっていた雪乃の顔。
私の差し出したケーキを頬張り、耳まで真っ赤に染めてそっぽを向いた雪乃の顔。
授業中、机の下で私の手をきつく握りしめて離さなかった雪乃の指の熱。
そしてついさっき、「ぎゅって、して」と先にねだって、私の胸に額を押しつけてきた、あの無防備な顔。
あの表情のすべてが、私の脳裏を占拠している。
あれは決して、画面の向こうに用意された記号のキャラクターなどではなかった。
泣いて、笑って、私を求めてくれた、等身大の女の子だった。
私は記憶を振り払うこともできず、布団の中で目を閉じ意識が途切れた。




