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恋人、かな

 雪乃がお風呂に入っている間、私は自室のベッドの端に腰掛けていた。


『帰りたくない』


 その言葉が頭の片隅に残っている。

 

「家が嫌なのかな。なんか家庭環境に問題が……」


 そう呟いた瞬間、視界の隅で光が弾けた。


「それは心配しなくてい良イルカ!」

「わあっ!? びっくりした……!」


 天井の角から、イルカイルが降りてきた。


「雪乃の家は家族仲は良好で、割と裕福な方イルカ。だから今回の帰りたくないは君とまだ一緒にいたいってことイルカね!」

「そうなんだ。それならよかった……」

 

 私は安心して、胸を撫で下ろした。


「そんなことより、チャンスイルカ~~! 今こそ告白のチャンスイルカ! お泊まりイベント発生中イルカよ!」

「静かにしてよ、下に聞こえるでしょ……」


 私は声を潜めてイルカイルを睨みつける。

 しかし、その言葉で現実を突きつけられた。

 そうだ。私はこのギャルゲー異世界から元の世界へ帰るために、ヒロインたちを攻略してラブエナジーを溜めなければならない。

 雪乃を攻略するには、友達以上の特別な存在になる必要がある。


「でも……今のままでもいい感じじゃない? 友達として普通に仲良くできているし、このままでいられたら……」

「現実を見るイルカ! 友達になってから、以前よりもラブエナジーの溜まり方がどんどん減ってイルカ! 雪乃は『このまま友達のままで終わるのかな』って、きっと不安になってイルカよ!」


 イルカイルは尾ビレをパタパタと振りながら、空中に光るガラス瓶を投影した。

 確かに、雨の日の劇的な和解以降、ラブエナジーの溜まり方は鈍化している。


「さっき、元カノと別れたのかって聞かれたイルカ! 付き合ってないなら『私と付き合って』のムーブをされてイルカ!」

「あ……そういえば、その双葉さんって誰なの? 突然聞かれて焦ったんだけど」

「それについては、これを見るイルカ!」


 イルカイルがヒレを動かすと、ホログラムの画面が切り替わった。

 一人の女の子の立ち絵。

 まっすぐ整えられた髪。制服の着こなしは隙がなく、こちらを見る目は冷たい。

 可愛いというより、答案用紙を赤ペンで容赦なく添削してきそうな顔。

 名前欄。

 双葉 涼香。


 プロフィール欄には、数字と項目が並んでいた。

 学年、十六夜学園二年特進クラス。誕生日、六月四日。血液型、AB型。

 身長、161cm。体重、49kg。スリーサイズ、B85/W56/H86。


 好きなもの、模試の結果、読書。

 苦手なもの、無責任な優しさ、中途半端な謝罪。

 紹介文には、特進クラスに在籍する完璧な優等生。主人公の元恋人であり、別れた後も冷淡な態度を取り続けている、とある。


「主人公の元カノイルカ!」

「も、元カノ!? どんな初期設定のゲームだよこれ! 最初から修羅場確定じゃん!」


 頭を抱える私の耳に、廊下からペタペタと素足で歩く音が近づいてくるのが届いた。


「おっと! 戻ってきてしまうイルカ! 告白、がんばイルカ!」


 イルカイルはそう言い残し、光の粒子となって消えた。

 直後、ドアが開いて雪乃が入ってきた。貸し出した袖口が余るグレーのスウェットに身を包み、首元から覗く肌が風呂上がりでほんのり桜色に染まっている。


「……今の声、誰」

「え? あ、いや! ちょっと電話をしてたんだよ。そう!唯花と……!」


 咄嗟に出た言い訳に、雪乃の眉間がピクリと動いた。

 雪乃は無言のまま私の隣まで歩いてくると、ベッドの端にドサリと腰を下ろした。


「どうしたの、雪乃?」

「……愚鈍。間抜け。産業廃棄物」

「えっ、ちょっと、理由もなく人格否定!?」

「理由は、ある」


 雪乃は膝の上で両手を握りしめ、顔を私の方へ向けた。


「他の女と電話してた。私がここにいるのに」

「それは……」


 返す言葉が見つからなかった。

 部屋の学習机の上にある時計の、秒針が刻むカチカチという音だけが響いた。


 『告白、がんばイルカ!』


 頭の中で、あのふざけた声が反響していた。

 雪乃の「帰りたくない」という一言が、ラブエナジーの種として頭の中に収まろうとしている。

 兄ちゃんの部屋の棚と、実家の食卓の匂いが一瞬だけ浮かんで、すぐ消えた。

 帰りたい。だから、踏み出す。


「わ、私は、さ……」


 私は雪乃の濡れた髪を見つめた。


「雪乃のことが、好き、だよ?」

「……っ」


 雪乃は黙ってしまう。

 逃げるための言葉を探しているようだった。

 けれど、今度は何も言い返さなかった。


「私も、真白が好き。認めたくないくらい、腹が立つくらい。でも、あんたの『好き』と同じにされたら困る」


 いつもの罵倒は続かなかった。

 雪乃は、言葉を選ぶように話し始める。


「私の好きと、真白の好きは違う。たぶん、全然」


 見透かされている。

 雪乃の目が、私が言えないでいる部分を正確に指している。

 でも、帰らなければならない。


「わ、私は……雪乃のこと、友達としてじゃなくて」


 自分自身に問いかける。本当にいいのか、私。


「恋愛対象として、好き……だよ」


 雪乃はすぐには反応しなかった。

 私の言葉を確かめるみたいに、じっとこちらを見ていた。

 それから、何かを言おうとして、失敗した。

 唇がかすかに震える。

 次の瞬間、雪乃の目から涙が溢れた。


「ええっ!? なんで泣くの!?」

「そんなこと、言われると思ってなかったから……っ」


 雪乃は手の甲で涙を拭おうとするが、次から次へと溢れる雫が止まらない。


「小学生の時から。ずっと好きだった。……言わせるな、こんなの」

「え……? 小学生?」

「覚えてないの? 小学生の学習発表会のとき、私、クラスの飾りを壊したって決めつけられた。男子がふざけて倒したのに、私が無愛想だからって、みんな私のせいにした」


 そんなことがあったのか。

 もちろん私の記憶にその出来事があるはずがない。


「先生まで半分信じてた。何を言っても聞いてもらえなくて……体育館の裏に逃げた。そこに真白が来た。最後まで聞いて、『三上さんはやってないって言ってるじゃん』って、私の手を引いて戻ってくれた」

「……」

「そのあと、真白は男子たちに詰め寄って、先生にも言い返して、結局一緒に飾りを直した。自分は関係ないのに、帰りの時間まで残って」

「そんなことを、私が……」

「あの時、初めてだった。私の言葉を、最初から信じた人。真白は忘れてるだろうけど、私は忘れられなかった。あの時から、ずっと……」


 雪乃の中では、何年も大事にしまわれていた思い出だった。

 その場にいた「佐倉真白」は私ではない。なのに今、雪乃の前にいるのは私だけだ。

 私は雪乃の背中に腕を回したまま、何も言えなかった。


「それで、前の学園の時、真白が双葉さんと付き合ってるって聞いた。諦めるしかないって思った。なのに二年になった途端、あんたが『雪乃』って呼んできた。期待した私がバカなのは分かってる。でも、無理だった……っ」


 雪乃の体が細かく震えている。

 私はその肩を抱き寄せ、背中をしっかりと腕で包み込んだ。


「雪乃……」


 壁際に、光が集まり、イルカの形になった。イルカイルだ。

 文字の書かれたうちわを持っている。


 『今だ!』

 

 私は見なかったことにした。

 キス。

 確かにイルカイルは、身体的な親密さの段階が進めばラブエナジーが一気に満ちると言っていた。

 私、ファーストキスなんだけどな……。

 元の世界で経験したかったという未練が頭をよぎるが、すぐにそれを振り払う。帰るためだ。やるしかない。


「雪乃、こっち向いて」

「え……?」


 顔を上げた雪乃の頬に手を添え、私はゆっくりと顔を寄せた。

 雪乃の唇がかすかに開く。そのまつ毛に残った雫が落ちるよりも早く、私は彼女の唇に、自分の唇を重ねた。

 柔らかくて、ほんのりと甘い、初めての感触。


「……ん……っ」


 唇を離すと、雪乃は呆然としたまま、顔を真っ赤にして私を見つめていた。


「ま、真白……っ!?」

「こういうの、なんて言うんだろう……。こ、恋人、かな」

「……真白……っ」


 雪乃は再び泣き出し、今度は自分から私の首に腕を回して、全力で抱きついてきた。

 その夜、私たちは一つのベッドに入り、同じ掛け布団を被って眠りについた。

 雪乃は私の左腕を両手できつく抱きしめたまま、朝が来るまでその手を決して離そうとしなかった。

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