ケーキ、半分こ
ノートに、シャーペンで数式を書き殴る。
土曜日の午後。私の部屋のローテーブルには、二つのノートが並んでいた。
この世界での学園生活は「成人の通う学園」という設定のはずだが、手元の課題プリントはどう見ても高校二年生の学習内容だ。
現実世界の大学受験で必死に頭に叩き込んだはずの公式も、数年のブランクがあればただの記号の羅列に見える。
「……そこ、公式が違ってる」
隣の雪乃が、私の書いた二次関数の解答をシャーペンの先で示した。
「え? あ、本当だ。マイナスとプラスを間違えてる……」
雪乃はシャープペンシルの頭をカチカチとノックし、私のノートの余白に正しい途中式を書き込んだ。
口元を尖らせつつも、その筆先は迷いがない。
前の刺々しい態度はどこへ行ったのやら、私のために間違えているところを教えてくれるだなんて。
自然と口元が緩む。
「真白、ニヤニヤしてないで書き写して」
「はいはい、やりますよ」
私たちはそれから、シャープペンシルの音と、プリントをめくる音だけを部屋に響かせながら、黙々と課題の空白を埋めていった。
***
コンコン、とドアが控えめに叩かれた。
「お姉ちゃん、お母さんからケーキの差し入れだよー」
ドアの隙間から顔を出した出海が、銀色のトレイに載せた二つの皿を運んでくる。
「やった! ちょうど頭が糖分を求めてたところ!」
「はい、ケーキ。あと、飲み物はどうする?」
出海は学習机の空いたスペースにトレイを置く。
生クリームの甘い香りが、一気に部屋に広がる。
「私はオレンジジュース。雪乃はカフェオレにするよね?」
「え……」
雪乃がシャーペンを握ったまま、動きを止めた。
「……なんで、私の好みがカフェオレだって知ってるの?」
「へ? あ、いや……」
やばい。イルカイルが見せてくれたプロフィール画面で得た知識が、無意識に口から滑り落ちていた。
「前に……そう、食堂の自販機で雪乃が買っているのを見たことがあって! それで覚えたんだよ」
「……見すぎ。キモい」
雪乃はそっぽを向いたが、その耳の端がじわじわと赤く染まっていくのが見えた。
「じゃあ、カフェオレとオレンジジュースだねー。すぐ持ってくる」
出海は部屋を出て行った後、すぐに飲み物を持ってきた。
「ごゆっくり〜」という一言と一緒に部屋から出ていく。
皿の上のショートケーキは生クリームがたっぷりとデコレーションされており、チョコケーキは濃厚なカカオの香りを漂わせていた。
「どっちにする?」
「チョコ……」
「じゃあ、私のショートケーキを一口あげるね」
フォークでイチゴと生クリームをすくい、雪乃の口元へと運ぶ。
「ちょっと、真白!? 自分で食べられる!」
「いいからいいから。あーん」
「……っ、バカ!いや、バカだったな」
雪乃は顔を真っ赤にしながらも、逃げ場を失った顔で口を開けて、フォークの上のケーキを慎重に口に含んだ。
「……甘い」
「でしょ? じゃあ、次は雪乃のチョコケーキを一口ちょうだい」
「……なんで私が食べさせなきゃいけないんだ」
「ほら、あーん」
促すと、雪乃はフォークを握り、チョコレートケーキを崩して私の方へ差し出してきた。
「……ほら」
「ん、美味しい! やっぱりチョコは濃厚だね」
もぐもぐと咀嚼する私を、雪乃は恥ずかしさを怒りに変換し損ねた顔で見ていたが、やがて自分の皿のケーキを口に運び始めた。
雪乃はカフェオレのグラスにストローを差し、ストローで一気に吸い上げた。
その時、雪乃がストローから唇を離し、フォークを見つめたまま動きを止めた。
「……なあ」
「ん? どうしたの?」
「真白って……双葉さんと、まだ付き合ってるのか?」
「へ?」
双葉……さん?
私の頭の中で、顔と名前が噛み合わない。
この世界の人たちは、私を昔からここにいた佐倉真白として扱う。だから、私が知らない過去を、相手だけが持っていることがある。
双葉さんという名前も、そのひとつなのだろう。
「あ、ああ! 双葉さんね! あ、あー! 思い出した! 付き合ってないよ! 私、今は完全にフリーだから! 本当に何もないよ!」
「……あっそう」
雪乃の肩の力が抜け、下を向いていた顔がゆっくりと上がった。口元がわずかに緩み、カフェオレのグラスを両手で包み込んでいる。
「じゃあ、課題の続き、やっちゃおうか」
「……ああ」
再び机に向かい、数学の残りの大問と英語の長文読解を終わらせた頃には、窓の外はすっかりオレンジ色に染まっていた。
「終わったー! 全部終わった!」
両手を伸ばして背中を反らせる。
雪乃はテキストとノートをカバンに仕舞い終えていたが、椅子から立ち上がろうしない。
「雪乃? どうしたの?」
「……まだ、帰りたくない」
「え?」
「帰りたくない。……今日は、このまま、ここにいる」
「……あ、そうなんだ! 全然いいよ! うちにお泊まりしていく? お母さんに確認してくるから、ちょっと待ってて!」
私は反射的に立ち上がり、部屋のドアを開けて階下へと走った。
リビングにいた母親に確認すると、「雪乃ちゃんなら大歓迎よ」と二つ返事で了承をもらえた。
こうして、土曜日の夜、雪乃が我が家にお泊まりすることが決まった。




