雨の中で泣いていた
三上雪乃は、昼休み前の休み時間、図書室で棚の間を歩いていた。
本を探していたわけじゃない。
教室にいたくなかっただけだ。
『……三上さんってさ』
聞こえた名前に、次の棚へ移るのをやめた。
三上さん。
私の話をしている。
『最近、佐倉さんと一緒にいない?』
『えっ、あの三上さんと? 嘘でしょ?』
私は背表紙の文字を一つずつ読み直した。
『ほんとほんと。昼休み、いつも同じタイミングで教室から消えるし……この前なんか、一緒に帰ってるところ見たって子もいて』
『うわぁ……佐倉さん、なんであんな奴と仲良くしてんの? 関わらないのが一番なのに。あのままだと、佐倉さんまでクラスで浮くよ?』
私は棚の端で足を止めたまま、声が遠ざかるのを待った。
『だよね。ていうかあんなに仲良いって、佐倉さんもパパ活とかしてるのかな?』
『結構遅い時間に帰ってるみたいだし、夜二人で立ちんぼとかしてるのかも』
『やばすぎ〜!』
笑い声が図書室のドアの向こうへ消えていった。
私は手の中の本を一冊引き抜き、タイトルを確認してから棚へ戻した。
……バカらしい。
本人に確かめもしないで、よくそこまで言える。
私のことを何と言われても、もう驚かない。
けれど、真白の名前が同じ話の中に混ぜられた瞬間、ページの文字が読めなくなった。
私といるせいで、真白まであんな話の材料にされる。
昼休みのチャイムが鳴る前に、ここから消えたかった。
私は本を棚へ戻し、図書室を出た。
***
廊下の窓の外で、雨が降り始めていた。
薄い雲が広がって、中庭の植え込みが風に揺れている。
私はお弁当箱を抱え直して四階へ向かう階段を上がった。
お弁当箱を持ったまま、空き教室のドアを引いた。
「雪乃、今日はね、お母さんのハンバーグを多めに――」
入った瞬間、おかしいと思った。
いつもなら向かいの机に座って、ぶつくさ文句を言いつつも硬い笑顔をくれる雪乃が、窓の外を向いたまま動かない。
「雪乃?」
返事がなかった。
「……来ないで」
聞いたことのない声だった。
私はドアの前で止まった。
「えっ?」
「耳まで聞こえなくなったのか? ……もう来ないでって言ってる。ここにも、私の半径一メートル以内にも」
雪乃が窓から離れず、そのまま続けた。
「雪乃、ちょっと待って。急にどうしたの。私、何か……した?」
雪乃は窓から離れて机をバンッと叩き、立ち上がった。
「あんたの存在そのものが目障り。毎日毎日、ズカズカ私の中に入ってきて……正直、ずっと吐き気がしてた」
「……え?」
「ただの暇つぶしで付き合ってあげてただけ。あんたがどうしてもってすがるから。でも、もう限界。あんたのお人好しな偽善には、反吐が出る」
私は返す言葉を探した。
ついさっきまで、今日のハンバーグを楽しみにしていた。雪乃が文句を言いながら全部食べることも、耳まで赤くしながらそっぽを向くことも、全部知っていた。
なのに。
「雪乃、ちょっと待ってよ。何かあったんでしょ?」
「馴れ馴れしく名前で呼ぶな!!」
雪乃が叫んだ。声が、部屋全体に響いた。
「……馴れ馴れしさの加減が壊れてるんじゃないのか? ほんと、不気味。最近ちょっと話したぐらいで、親友みたいな顔するなよ」
「そんなこと言われても、私は――」
「底抜けのバカ。ポジティブすぎて眩暈がする。……もう二度と私に話しかけるな。あんたと一緒にいるところ見られたら、私まで公害だと思われるから。迷惑なんだ」
言い捨てて、雪乃は私の横を通り抜け、教室から駆け出した。
机の上には、私のお弁当箱と、雪乃が持ってきていたチョコパンの袋だけが残った。
チョコパンの袋は、開けられていなかった。
***
校舎を出た瞬間、雨が制服に叩きつけてきた。
傘を取りに戻る余裕なんてなかった。
私は昇降口から飛び出し、水たまりを踏みながら雪乃の背中を追った。
「待って、雪乃!」
少し先を、雪乃が傘もささずに走っている。
「ついてくるな! あっち行け!」
「行かない! 待ってってば!」
靴の中まで水が入る。
それでも足は止まらなかった。
私は雪乃の背中に追いつき、思い切り腕を伸ばした。
「捕まえたっ!」
「……っ、離せ! バカ、傘も差さないで……あんたまで濡れる! 風邪引くから離れろ!」
雪乃は私の手を振り払おうと暴れる。
「雨なんてどうでもいい! 雪乃がなんで逃げるのか、ちゃんと聞くまで絶対離さない!」
「言うことなんて何もない! あんたが目障りだから視界から消したかっただけ! お人好しで、馴れ馴れしくて、調子が狂うんだよ……一緒にいると悪寒がするんだ!」
「嘘だ!」
私は雪乃の両腕をがっちりと掴み、正面からその顔を覗き込んだ。
「嘘じゃない! 私のことは放っておけ! パパ活しているような女だって、クラスのみんなみたいに笑ってればいい!」
「そんなことできるわけないじゃん! それにパパ活は誰かが流した悪意あるただの噂でしょ! ……雪乃だって、苦しそうな顔して、なんで私から逃げるの!?」
「…………っ」
「私が嫌いになったなら、そう言って! でも、もし違うなら……本当のことを教えてよ、雪乃!」
雨が頬を打ちつける。
雪乃は強く目を閉じ、濡れた前髪からポタポタと雫を落としていた。
「……っ、違う……」
「え?」
「嫌いになったわけじゃない……。あんたに……真白に、嫌われたくなかった……っ」
「雪乃……」
「クラスで噂になってた。真白が私なんかと一緒にいるせいで、真白のことまで変な目で見る人たちがいて……。このままだと、真白まで浮く」
「そんなの、私――」
「真白は底抜けに明るくて、バカみたいにポジティブで……本当なら、クラスの中心で誰とでも笑い合えるはずなのに。私と一緒に空き教室なんかでご飯食べてたら、真白までひとりぼっちになる!」
雨でぼやけた校庭に、雪乃の声が響いた。
あの噂のことだ、と分かった。
私が教室で聞いた、あのくだらない噂。
雪乃も知っていたんだ。
知って、一人で、こんなことを考えていたんだ。
「……だから、離れるしかないって思った。私がキツイこと言って、真白を傷つけて、完全に嫌われれば……真白は元の場所に戻れるから。私なんかに関わらないで、普通に生きていけるから……っ」
「……バカ。雪乃の、バカ」
「……バカでいい。……でも」
雪乃が顔を上げる。その瞳からは、雨ではない大粒の雫が溢れ出していた。
「……でも、本当は離れたくなかった……っ」
雨音に混じって、雪乃の泣きじゃくる声が響く。
「毎日、お弁当のおかず分けてくれるの、嫌じゃなかった……。私のこと変な目で見ないで、普通に名前呼んでくれるのも、嫌じゃなかったのに……っ。自分から突き放したくせに、明日の昼を考えてる私がバカで……」
「……うん」
「嫌だ……一人に戻るのは、もう嫌。本当は、明日も真白と一緒に……あの空き教室で、甘すぎる卵焼き、食べたかった……っ」
私は雪乃の腕から手を離し、そのまま彼女の濡れた背中に腕を回して、強く抱きしめた。
「っ!? ちょっと、何してるんだ……制服、びしょ濡れ……」
「雪乃がバカなこと言うから、抱きしめてるの! 噂が平気って意味じゃない。私は雪乃と一緒にいるって、自分で決める!」
「……っ、キモい……。力強すぎ、肋骨折れる……このゴリラ……っ」
雪乃は私の背中に顔を押し当てながら、くぐもった声で文句を言った。
「あはは、久しぶりにフルコンボで罵倒された。でも、今は全然痛くないや」
「……バカ真白」
背中に回された雪乃の手が、私の制服をぎゅっと掴む。
攻略とか、ラブエナジーとか、元の世界に帰るとか。
そのために雪乃の気持ちを使おうとしていた自分が、今さら嫌になる。
今は全部どうでもいい。
ただ、雨の中で泣いているこの子を、もう絶対に一人にしない。
それだけは、はっきりと分かった。




