我慢したぶん、甘やかして
土曜日、駅前で待っていた久遠先輩の前へ、私はボストンバッグを抱えて駆け寄った。
背中にはギターケースがあり、久遠先輩がポイントで予約した二日間を過ごす準備はできている。
「久遠先輩、お待たせしました! お泊まりの荷物と、ギター、ちゃんと持ってきましたよ!」
「いい子ね。準備万端じゃない。……でも、最初に向かうのは私の家じゃないわよ?」
「えっ? 家に行くんじゃないんですか?」
家へ行くつもりだった私は、そのままレンタルスタジオへ連れてこられた。
受付を済ませた久遠先輩が防音扉を開ける。
「お泊まりだからって、練習を後回しにはしないわ。この土日の目標は、『恋するリボン』のサビを二人で合わせられるところまでよ」
「さ、サビまで!? が、がんばります……!」
私はギターケースを壁際へ置いた。
まずは、目の前のFをどうにかしないといけない。
私はギターをアンプへ繋ぎ、弦へカポを挟み、スマホを譜面台へ置いた。
久遠先輩はベースを隣のアンプへ繋ぎ、スマホでメトロノームのアプリを開いた。
速さを原曲より遅く設定してくれたようだった。
「……っ、F、G……次はEm。ああっ、また指が間に合わない……!」
「一曲全部を弾こうとしなくていいわ。まずはFからGへ移るところだけ、繰り返しましょう」
「Fを弾くだけなら鳴るのに、メトロノームに合わせると音が詰まるんです」
「強く押そうとしないで。人差し指を少し傾けて。最後の音を鳴らしたら、すぐGの形へ指を動かし始めなさい」
久遠先輩はベースをスタンドへ戻し、私の横へ腰を下ろした。
私の人差し指へ自分の指を重ね、弦へ触れる角度を変える。
「まだ指に力が入っているわね」
久遠先輩は、私の人差し指を鳴らなかった二本の弦へ戻した。
「最後の音を鳴らしたら、すぐ……こうですか?」
「ええ。右手は止めないで。次の音に入る時には、指をGの形へ置くの」
Fを鳴らしてすぐGへ指を動かすと、曲には間に合ったが、やっぱりうまく音が鳴らなかった。
久遠先輩は私の隣から立ってベースを肩へ掛け、私がFを弾くところへ低い音を重ねた。
「わっ……! 先輩の音に合わせようとすると、私の右手が止まっちゃいます……!」
「私を追わなくていいの。メトロノームだけ聞いて、右手を動かし続けなさい。最初は私も、真白が指の形を変える時に一度鳴らすだけにするわ」
音が詰まったり曲に遅れたりするたび、久遠先輩はベースを止めて、また同じところを一緒に弾いた。
何度も繰り返し、ようやくGまで止まらず進めたが、次のEmで右手が止まった。
「うう……難しいです……。今日、サビ最後まで通せませんでしたね……ごめんなさい」
私はピックを譜面台へ置き、スマホを見た。
久遠先輩はベースを外して私の頭へ手を乗せ、指で髪を梳いて前髪を横へ分けた。
「落ち込む必要はないわ。昨日までFの音すら鳴らせなかった真白が、今日は曲の途中でFからGへ指を動かして、私のベースと合わせようとしていた。……失敗したことじゃなくて、できるようになったことを見なさい。よく頑張ったわね」
私はピックを取って、もう一度Fを鳴らした。
今日、一番綺麗なFの音が鳴った。
***
夕方にスタジオを出て久遠先輩のマンションへ向かい、二人で夕食を取り、順番にお風呂に入った。
パジャマでリビングへ戻り、ギターをアンプに繋いでそこへ有線のヘッドホンを繋いだ。
「……F、から、G。指の移動をもっと早く……」
ギターの音は私のヘッドホンからしか聞こえないため、隣の久遠先輩は私の左手を見ていた。
Fを四回鳴らしてからGへ指を動かすと、今度は途中で引っかからずにGの音が鳴った。
「……よし。今、前より止まらずに弾けたかも!」
「ええ、そうね。……でも、時間よ。そろそろ寝ましょうか。ギターを片づけてちょうだい」
「あっ、はい! 今日もたくさん教えてくれて、ありがとうございました」
「お礼は、今夜いただくわ」
ヘッドホンを外してアンプの電源を切り、ギターをケースへ入れる。
久遠先輩は私がギターをしまうのを待ち、寝室の扉を開けた。
寝室へ入ると、久遠先輩はクローゼットから黒い箱を出した。
「真白のために用意したものがあるの」
ベッドの上で蓋を開く。中には、黒くて布面積の少ないブラとショーツが入っていた。
ブラはすけすけ、ショーツは股の部分が最初から開いている。
着ても何ひとつ隠せそうにない、下着の上下セットだ。
「こんなの着れないですよ!」
久遠先輩は上目遣いで、私を見た。
「真白の練習、一生懸命付き合ったのに……」
昼間は、何度失敗しても嫌な顔をせず、私の練習に付き合ってくれた。
そこでそれを持ち出すのは反則だ。断れなくなっちゃうじゃないか。
「わかりましたよ」
久遠先輩が、すぐに箱を私の方へ寄せた。
私はその下着を持ち上げた。これを、着るのか……。
「久遠先輩は着ないんですか?」
「一着しかないもの」
「ずるいです!」
着替えてみると、思ったより何もかもが透けていた。
片腕で胸元を隠し、反対の手をショーツの前へ重ねて久遠先輩の方へ向く。
「とってもえっちだわ真白」
久遠先輩は私の両手首を取って下ろし、私に触れた。
「ひゃっ……く、久遠先輩?」
ベッドへ誘導されると、今度は両肩を押され、そのままベッドへ横たわった。
久遠先輩が私の腰を跨ぎ、下着姿の私を上から見た。
「……真白。私、今日……ずっと我慢してたわ」
「えっ……我慢……?」
「昼間からずっと、真白に触れたかった。スタジオでも、真白の真剣な横顔を見るたびに、そのギターを奪ってキスしてしまいたかったのよ」
「あ……っ」
「でも、真白があまりにも真剣に練習しているから……先輩として、理性を保つのが大変だったわ。練習はもう終わり。……ここからは、私だけの時間よ」
「んっ……」
久遠先輩の唇が重なり、私は背中へ腕を回した。
昼間に我慢したという分、久遠先輩は私を何度も抱きしめ、身体から力が抜けたあとも腕を解かなかった。
枕元のティッシュで私の太腿と自分の指を拭いて掛け布団を引き上げ、裸のまま横向きになった私を背後から抱きしめた。
「……眠るまで、こうしていてもいいかしら」
久遠先輩は私の手を取り、指を絡めて掛け布団の中へ引き込んだ。
私はその腕の中で身体の向きを変え、久遠先輩と向き合った。
久遠先輩は額を合わせ、私の髪を梳いてから、指の背で頬を撫でた。
「一日我慢したもの」
昼間の我慢をまだ使うのはずるいけれど、このままでいようと思った。
「わかりましたよ、久遠先輩」
返事をすると、久遠先輩が私の額へキスをした。
私は久遠先輩の胸元へ頬を寄せ、絡めた指を握り返した。背中を撫でられたまま、目を閉じた。




