私、ギターにする
土曜日、零が予約してくれた駅前の音楽スタジオで、レンタルのギターとベースがスタンドに置かれていた。
大きいスピーカーのようなものは、アンプというらしい。
「これがギターとベース……」
「真白、弾いてみましょう」
零がポイントを使ったはずの土日だったが、その場には久遠先輩もいた。
「……ところで、どうして、あなたがいるの。週末の真白の独占権利は、私にあるのに」
「あら。私はあくまで楽器を決めるための『講師』として来ただけよ。あなたは鍵盤楽器しか教えられないでしょう? ……さあ、真白。まずはベースを持ってみて」
「…………」
零は無表情だが、どことなく怒っているオーラを出していた。
黒いベースを肩にかけると、背中に久遠先輩がくっついてきた。
「どうしてそんなに、真白にくっつく必要があるの」
「不可抗力ね。後ろから支えてあげないと、初心者には重いでしょう? 真白、指はここに置くのよ」
久遠先輩の指が、私の指を弦の上へ乗せた。
「押さえてみて」
言われた通りに押さえようとすると、思ったより力が必要だった。
「……痛っ。弦が太くて、押さえた瞬間に指が……」
「そうね。それにベースは、ズレると曲の土台が崩れるわ。ドラムと噛み合わないと、下手さがかなり目立つパートよ。それに、音を鳴らすより、余計な音を止める方がずっと難しいわ」
アンプから出た低音は床から身体に響く。
押さえる指に力が入らず、弾いていない弦まで鳴って、ベースは地味で簡単な担当ではないと分からされる。
「次はギターね。ほら、持ち替えて」
久遠先輩がベースをスタンドへ戻し、今度はギターを私の肩にかけると、久遠先輩はコードの形を教えてくれた。
さっきより持ちやすい気がする。
でも、教えられたコードを押さえようとしても全然形にならなかった。
「……んっ。うーん……音が綺麗に鳴らない。指も痛いし、変な弦が鳴っちゃう……」
「じゃあこっちの、この簡単なパワーコードを弾いてみて」
久遠先輩が私の人差し指と薬指を押さえ直す。
「あ……。少し汚いけど、ギターって感じの音になる!」
「初めてにしては上手ね、真白」
久遠先輩がまた私の頭を撫で、零の視線がその手にいった。
「ちょっと、弾いてみてもいいですか? どっちも」
「時間はまだあるわ。ゆっくり触って決めなさい」
久遠先輩は返事をしながら、まだ私の頭に手を置いている。
講師ということにすれば、何をしても許されると思っていませんか、先輩。
「もう教えるのは終わり。離れて」
零が久遠先輩の手首を取って、私の頭から外した。
そのまま、久遠先輩を追い払って私の背中に、腰に腕を回してきた。
「ちょ、零……近すぎるよ。弾きにくいんだけど」
「……真白、今度は私が支えるから」
零に抱きしめられたまま、ギターを弾いてみた。
またベースを持ってみる。
やはり変な音は鳴るものの、うまく止められない。
もう一度ギターに持ち替えて、音を鳴らしてみた。
「真白、どう?」
文化祭までに練習するなら。それなら……
「私……ギターにする」
そう言ってから、左手の指先がじんじんしているのに気づいた。
下手くそな音しか出せないくせに、もう少し弾いてみたいと思っている自分がいた。
***
スタジオを出る頃には、左手の指に弦の跡がついていた。
久遠先輩は駅前の歩道で足を止め、名残惜しそうに私の方を見た。
「それじゃあ、ここでお別れね。月曜日に学校で会いましょう」
「うん。さよなら。……真白」
「んっ……」
「……っ!」
別れの挨拶の途中で、零が私の唇を塞いだ。
久遠先輩の笑顔が、ほんの一瞬だけ固まる。
「……んんっ」
零の腕が背中へ回り、唇が深く重なる。
通り過ぎる人の視線が集まって、私は零の肩を押そうとした。
「んっ!? ちょ、ま、零……っ!」
押したはずの手を、零に握られる。
舌先が触れて、私は外なのに何をされているんだと頭の中で叫んだ。
久遠先輩がこっちに近づいて止めようとすると、零は私の手を握ったまま、さらに唇を重ねてきた。
息継ぎのたびに道行く人の足音と視線が戻ってきて、もう文化祭どころか今この場で社会的に終わりそうだった。
「ちょっと零、ここ、外だよ!?」
「愛に時と場所は関係ない」
あります。
かなりあります。
「あなた、本当に図々しい新参ね。……せいぜい、短い週末を楽しみなさい。じゃあね、真白」
久遠先輩は声を荒げなかったが、私を見る視線に怒りがこもっていて、私は月曜日の十六室が怖くなった。
***
家に着くまで、零は私の手を離さなかった。
玄関で靴を脱ごうとしても、背中側から腕を回したままなので、私は片足立ちでよろけかける。
「……真白の匂い。ずっと、くっついてたい」
「零、家の玄関に入る時からずっと抱きついてるけど……歩きにくいよ」
靴を揃えようとしたら、私の後ろに回った零がうなじにキスをして、びくっと肩が跳ねた。
スリッパを履く前にまたキスされ、玄関の廊下で深く唇を重ねられて、私は壁に手をついた。
「ちょ、零まだ玄関」
「ん……」
再び唇を塞がれ、舌を入れられる。私はそれに抵抗できず、応えることしかできなかった。
「お姉ちゃん、おかえ……」
キスをしている最中なのに、話しかけられてしまった。
……最悪だ。
「って、ええ!?」
リビングから顔を出した出海が、両手で自分の目を覆った。
指の隙間はしっかり開いている。
「……その人は……?」
「……真白の、彼女」
「えっ、あれ? 三上さんがお姉ちゃんの彼女じゃ……」
「いや! 二人とも彼女じゃないからね!?」
否定した私の腰を零が抱きしめ、出海の視線は私と零から離れない。
これ以上玄関にいると家庭内で新しい噂が生まれるので、私は零を引っ張って階段を上がり、部屋の扉を閉めた。
「……真白」
「なに?」
「……ベッド、いこ?」
「ええっ!? ま、まだ昼間なんだけど……」
抗議したのに、零は私の制服の裾を摘んだ。
「……だめ? 私、真白といっぱいいちゃいちゃしたい。……お願い」
零は、前の零なら言わなかった自分からのお願いを、今は自分がしたい、と私の前で言ってくれる。
このループが終わったら、またあの空っぽな零に戻ってしまったのかもしれないと、思っていた。
でも、目の前の零は違った。
私とのことを覚えていて、自分の意思を示してくれる。
それを思うと、昼間だとか、出海が下にいるとか、止める理由が出てこなくなってしまった。
「……わかった」
ベッドに腰を下ろした途端、零が両肩に手を置き、私は押し倒され仰向けになった。
ひんやりした指が唇をなぞり、さっき玄関でされたキスを思い出してしまう。
「……真白」
「ん、な――」
返事の途中で唇を塞がれ、舌が触れるたび、逃げようとした息が零の口の中へ戻される。
零の膝がシーツに沈んで私の両側を挟み、触れられる場所が増えるたび、私は声を飲み込むのに必死だった。
「……真白、キスが上手くなった」
「うっ! そ、それは……今までの経験というか、その……っ」
言い訳は、最後まで言わせてもらえなかった。
零がまた口を塞いで、私の声ごと深く重ねてくる。
「……今は、私だけを見て。真白の全部、私で上書きするから……」
その言葉と一緒に、背中がシーツへ沈んだ。
私は言い訳を探すのをやめて、零の背中に腕を回した。




