元彼と、どっちが気持ちいいですか?
土曜日の昼過ぎ、私は藤代先生の部屋で、積み上がった段ボールを前にしていた。
玄関を入ってすぐの廊下にも、リビングの壁際にも、オンラインクレーンゲームの配送箱がある。
前に来た時も多かったけれど、今日はソファへ向かう通路が箱で狭くなっている。
確かに、これでは映える写真を撮るのは無理だ。
「最近、全然もちおたちの写真を送ってくれないから、どうしたのかなって思ってたんですよ」
「うぅ……ごめんね。アプリのクレーンゲームのダンボールが溜まりすぎちゃって、部屋が汚すぎてとても写真なんて撮れる状態じゃなかったの……」
先生は両手で顔を隠した。
私は玄関で、受け取った空の段ボールを畳み始めた。
「ふふ、だからこうして私が片付けを手伝いに来たんじゃないですか。さあ、どんどん開封して飾っちゃいましょう」
空箱を畳んだ後、ガムテープで閉じられた箱を開けると、中からラピピのクッションが出てきた。
私は箱の中の緩衝材を抜き、先生にクッションを渡した。
先生は棚の空いた段にクッションを置いて、角度を調整する。
私は畳んだ段ボールを玄関横に積み、緩衝材をゴミ袋へ入れた。
「ふぅ……ようやく片付きましたね」
「うん、ありがとう佐倉さん。……ぬいぐるみたちも、綺麗に並べられて嬉しそう」
最後の箱を畳むと、先生はソファに腰を下ろした。
私も隣に座る。
片付けは終わり、私はやることがなくなってしまった。
でも、先生の部屋に来た用事は、片付けだけで終わらせるわけにはいかない。
「……佐倉さん」
「なんですか、先生?」
私は先生の方へ体を向けた。
先生もこちらを見る。
「私、最近変なの」
先生が、頼りない声で言った。
「部室で、佐倉さんが四条さんと仲良くしているのを見ると」
私はドキッとして、言葉が出なかった。
ののみの顔が浮かんでしまう。
「なんかモヤモヤってするの」
先生は私の方をまっすぐ見て、言葉を止めなかった。
「気がついたら佐倉さんのこと考えてて……だから、その、多分私」
先生が一度、唇を噛んだ。
今の先生は、先生の顔をしていない。
ただ、好きな人に告白しようとしている二十三歳の女の人だった。
「佐倉さんのこと、好き、なんだと思う」
私はすぐに返せなかった。
ののみを抱きしめた手で、今は先生の隣に座っている。
その事実に、胸が苦しくなってしまう。
「先生……」
私も好きです、と言えば、先生はきっと喜んでくれる。
先生がこちらを向く。
目が合った。
先生は震えながら、ゆっくり顔を寄せてきた。
今度は私からではない。
先生の方から、私の唇に触れた。
「んっ……」
触れるだけの拙いキスだった。
先生は唇を離した後、どうすればいいのか分からずに固まっている。
私は先生の腰に腕を回し、逃げないように引き寄せながら、もっと深く唇を塞いだ。
「……はぁ、んっ」
「んっ……ひゃっ……ま、待って……っ」
私が息継ぎを待たずに舌を絡めると、先生が慌てて私の肩を押した。
唇を離す。急ぎすぎただろうか。
「……なんですか? ダメ、でしたか?」
「ち、違うのっ……! あ、あの……もちおたちが、見てる、から……」
「確かに、見られちゃいますね」
「う、うん……! ちょっと、待っててね……!」
真っ赤になった先生がソファから立ち上がった。
まず、こちらを向いているラピピを棚の奥へくるりと回す。
次に、もちおを両手で抱えて、テレビ台の上からクローゼットへ運ぶ。
こんな場面で、ぬいぐるみへの配慮を真剣にする先生が、どうしようもなく可愛い。
「ふぅ……。こ、これで、大丈夫……」
「ふふっ。可愛すぎますよ、先生」
戻ってきた先生の腕を引き、そのままソファへ倒した。
先生の体が硬くなる。
私は先生の髪に触れ、乱れた前髪を額の横へ流し、頬へキスをする。
先生の肩から、力が抜けた。
「んっ……佐倉さん……っ」
先生は、まだ私を苗字で呼ぶ。
部室でも、車の中でも、先生の部屋でも。
「……真白、って呼んでください。先生」
「……ましろ、ちゃ、ん……」
「ふふ、よくできました」
私はもう一度、先生の唇に触れた。
先生は今度は、逃げなかった。
たどたどしく舌を出して、私の動きを追ってくる。
「……じゃあ、私のことも、先生はやだ」
「えっ?」
「もう、学校じゃない、から……。先生って、呼ばないで……?」
先生は、恥ずかしそうに私を見上げた。
その言い方はずるい。
「……分かりました。じゃあ……終さん」
終さんは返事をしなかった。
代わりに、自分から私の唇に触れてくる。
私たちはそのまま、ベッドへ移動した。
ベッドに座ると、終さんが私の手を握った。
「……真白ちゃん」
終さんが、不安そうに私の顔を見上げる。
「……私が、リードする。年上だし、教える側だし……真白ちゃんのこと、好きだから。ちゃんと、私が」
「じゃあ、お手並み拝見です。……年上の終さん」
終さんは戸惑いながらも、私に近づいてくる。
「経験、あるもん! だって私、大人だし……」
そう言い張る終さんの、私の肩に置かれた手は、まだ震えていた。
「経験ある」も「大人」も、私によく見せようとするだけの見栄だ。
震える手でそれを言う終さんが、可愛くて仕方ない。
──その「経験ある」が本当かどうか、少しだけ突いてみたくなった。
「それって……元彼と、とかですか?」
終さんが固まり、顔色が一気に変わった。
「こ、こんな話、真白ちゃんの前でしちゃダメだよね!? 私のばかばか……!」
さっきまでの強がりが崩れてしまい、終さんはうずくまって顔を手で覆った。
「……元彼に、言われたことあるの。私、反応が薄い、つまんないって。……マグロ、って」
終さんの声が、だんだん小さくなる。
「だから、こういうことするの、本当は自信がないの……。真白ちゃんにも、がっかりされたらどうしようって……」
終さんは、ずっと消せずにいた古い傷を、私に教えてくれた。
――昨日、私はののみに「好きだ」と言った。その同じ手で、今は終さんの傷に触れている。
最低だと思う。それでも、終さんにこんな顔をさせた元彼のことだけは、今日で忘れさせたかった。
「……嫉妬しちゃいます。終さんの初めてが、私じゃないの」
私は終さんの背中に手を置いて、うずくまった身体をそっと起こした。
「でも、その元彼が引き出せなかった終さんを、私が全部もらいます。……終さんのそういう顔、私だけのものにしたい」
終さんがなにか言う前に私は唇を塞ぎ、そのまま押し倒した。
「ま、待って……私がリードするって……」
「もう遅いです」
キスを重ねながら、私は終さんの髪に触れた。
伏せられたもちおたちは、もうこちらを見ていない。
終さんの服のボタンを、上から一つずつ外した。
あらわになった肌に手のひらで触れると、終さんの身体がびくりと跳ねる。
「ん……っ」
私が触れるたびに、終さんは慌てて口を手で覆う。
「……声、我慢しなくていいから」
「で、でも……っ」
私の手のひらの下で、終さんの身体は素直に反応していた。
「元彼は、こんなふうにしてくれましたか?」
「……っ、な、なに……これ……私、こんな……っ」
終さんは、自分の身体に起きていることに、ついていけていない。
先生として、年上としての見栄も、とっくに剥がれ落ちていた。
私が触れるたびに、終さんの言葉が、どんどん形をなくしていく。
「元彼と、どっちが気持ちいいですか?」
意地悪だと分かっていて、聞いた。
「まし、ろちゃんっ……真白ちゃんの、ほうが……っ」
その答えが、私の中の何かを満たす。
高まっていく終さんを、私は抱きしめて支えた。
「あ──もう、だめっ……」
もう、言葉の輪郭がぼやけている。終さんの口からは、私の名前と、意味をなさない声しか、出てこなかった。
やがて、終さんの身体が大きく震えて、こわばって――それから、力が抜けた。
「…………っ、……はぁ……っ」
しばらく、終さんは動けなかった。天井を見上げたまま、荒い息を繰り返している。まだ、身体が小さく震えていた。
しばらくすると、両腕を伸ばして私をぎゅっと抱きしめてきた。
顔を私の胸に埋めて、声を押し殺すように震えている。
「……私が年上なのに……」
くぐもった声だった。
「でも、可愛かったです」
「もう、そういうの言わないで……っ」
終さんは抗議しながらも、腕の力を緩めなかった。
私は終さんの背中に手を回して、抱きしめ返した。
今日この部屋で、私たちは顧問と部員ではいられなくなった。
終さんが私の胸に顔を埋めたまま、小さくうなずいた。
「……真白ちゃん、好きだよ」
終さんの腕に、ぎゅっと力がこもった。
「私もです。終さん」
終さんは、私の胸に顔を埋めたまま、しばらく動かなかった。
汗ばんだ髪を撫でると、くすぐったそうに首をすくめた。
「……ねえ、真白ちゃん」
「はい?」
「もちおたち、そろそろ……出してあげても、いい……?」
ぬいぐるみたちを気にする終さんがおかしくて、私は笑ってしまった。
起き上がって、うさちゃん先輩をクッションの陰から、たこ部長を箱の中から救い出す。もちおとラピピも、元の棚へ戻した。
ぬいぐるみたちの視線が戻ってくると、終さんは布団を引き上げて、その中に半分隠れる。
「もう……っ、恥ずかしいから、こっち見ないでよぉ……」
「見ちゃダメなのは、もちおたちですよ。私は、いいでしょう?」
「真白ちゃんが一番ダメなのっ……!」
布団の隙間から、真っ赤な終さんが睨んでくる。睨んでいるのに、私の袖を掴んだ手は離れない。
「マグロ」なんて言った元彼は、きっとこの顔を知らない。知らないまま、この人を手放したんだ。もったいない、と思う。
私は布団ごと終さんを抱き締めて、頬ににキスをした。




