第64話 対のゲート起動
疲労した筋肉に酢の酸味が染み渡り、強張っていた繊維がゆっくりと解け始めるのを感じていると、組合長との交渉を終えたララが戻ってきた。彼女は指先で錆びた鍵の束をくるくると回しながら、見るからに機嫌の良い足取りでこちらへ向かってくる。
「待たせたわね。倉庫と深水桟橋の権利、正式にうちの商会で押さえたわよ。組合長さんも、海賊を退治してくれた恩人からの提案だってことで、かなり融通を利かせてくれたわ。これで海産物の流通ルートの要は確保できた」
「手回しが早いな。いくらで買い叩いたんだ?」
「人聞きの悪いこと言わないで。適正な投資よ、投資。さ、まずはその倉庫の視察に行きましょうか。長年放置されていたらしいから、中の状態を直接確認しておきたいの。使い物にならないくらい朽ちているなら、マザーさんに頼んで建て替えてもらわないといけないし」
俺とヴァネッサは立ち上がり、ララの案内で港の端に建つ巨大な石造りの倉庫へと向かった。
歩きながら周囲を見渡すと、海賊が全滅したという報せはすでに町中に広まっているようだった。長年怯えて暮らしていた町民たちが、戸袋の隙間から恐る恐る外を覗き込んでいる。海賊船が沈んだ海を指さし、囁き合う声が微かに聞こえてきた。彼らの顔にはまだ警戒の色が残っているが、それでも、長きにわたる重圧から解放された安堵の空気が、この寂れた港町に少しずつ満ち始めている。
目当ての倉庫は、周囲の粗末な木造家屋には不釣り合いなほど、巨大で堅牢な建造物だった。潮風に長年晒され続けているはずの外壁は、表面に塩の結晶や緑色の苔がこびりついているものの、石材そのものの風化や崩落は見られない。木製の巨大な両開き扉は潮風で完全に腐り落ち、ただの残骸と化していたが、枠組みを支える太い石柱はびくともしていなかった。
俺は壁に歩み寄り、手のひらでその表面を撫でた。ざらついた感触の奥に、石と石の隙間を埋める微細な素材の均一さを感じる。風化しない石などない。だが、これを繋ぎ合わせている接着材が異常なのだ。
「……これは、ただの石積みじゃないな。目地に古代のコンクリートが使われている。テラ・テルマエの遺跡の基礎と同じ材質だ。それに、この石の切り出し方、現代の石工の仕事じゃない」
「古代の? ということは、この港も……」
ララが目を丸くする。俺は頷き、腰の通信機を取り出した。
「マザー、この倉庫の地下をスキャンしてくれ」
『了解しました。……地下15メートル地点に、空間の広がりと微弱な魔導回路の反応を確認。テラ・テルマエの地下遺跡と極めて類似した構造パターンです。かつて、ここも物流の中継拠点として使われていた可能性が高いですね』
「やっぱりな。入り口を探すぞ」
倉庫の中は空っぽで、長年の間に堆積したカビと埃の匂いが充満していた。かつてはここに干物や塩漬けの魚が山のように積まれていたのだろう。床を覆う分厚い土埃をマザーの送風機能で吹き飛ばすと、部屋の中央に、周囲の石畳とは明らかに質の違う、分厚い正方形の金属板がはめ込まれているのが見つかった。隙間には黒い泥が詰まっていたが、金属そのものは全く錆びていない。
俺が【魔力変換・接続】で微弱な魔力を流し込むと、金属板の縁が淡く青い光を放ち、重々しい音と共にスライドして地下へ続く階段が現れた。
「ヴァネッサ、警戒を頼む。マザーからアンカーを下ろしてくれ」
「了解した。重い荷運びは任せろ。足元が暗いから気をつけろよ」
ヴァネッサがマザーの荷台から、テラ・テルマエで組み上げてきた転移ゲートの要となる金属製の円環――『アンカー』を軽々と担ぎ上げ、俺の後に続いて階段を下りていく。ララも用心深くスカートの裾を掴みながら続いた。
地下室は、地上の湿気や磯の匂いとは無縁の、冷たく乾燥した空気に満ちていた。
俺たちが足を踏み入れると、天井に埋め込まれた青白い非常用照明がパラパラと点滅しながら点灯し始める。ホコリ一つない無機質な空間の中央には、アンカーを設置するためとしか思えない、魔導回路が刻まれた円形の台座が残されていた。
「ここに置け。ぴったりとハマるはずだ」
ヴァネッサが台座にアンカーを下ろすと、カシャンという金属音と共に、台座の回路とアンカーの接点が物理的に噛み合った。
「よし、繋ぐぞ」
俺は台座に両手を押し当て、深く息を吸い込んだ。
体内の魔力を練り上げ、波長を台座の古い回路へと同調させていく。錆びついた歯車に油を差し、一つずつ手動で回していくような、繊細で根気のいる作業だ。回路の奥深くに眠る古い魔力の残滓を押し流し、俺の魔力で新しい道を切り拓いていく。
「マザー、シスター。そっちのメインゲートの状況はどうだ」
『こちらテラ・テルマエ。動力炉出力安定。ゲートへの魔力供給、いつでも最大値まで引き上げ可能です』
マザーの落ち着いた声に続き、鈴を転がすようなシスターの声が通信機から響いた。
『お兄様! 空間座標の演算、終わってます! あとはそっちのアンカーと波長を合わせるだけです!』
「了解した。俺の魔力を通して、そっちの波長を引っ張る。マザーは出力を、シスターはコンマ単位のブレの補正を頼む」
俺は台座に流し込む魔力の圧を一段階上げた。
アンカーの円環が唸りを上げ、青白い光の粒子を放ち始める。
空間そのものが軋むような、独特の低周波の振動が地下室を満たした。数千キロ離れたテラ・テルマエと、この港町の空間座標を、魔力の糸で強引に結びつける。少しでもズレが生じれば、空間の捻れによってアンカーそのものが自壊してしまう。額から嫌な汗が流れ落ちた。
「……シスター、位相が少し上ずってる。0.5ミリ下げろ」
『はいっ! 補正掛けます!』
「マザー、そのまま押し込め!」
『了解。最大出力、解放します』
バチィィッ!!
強烈な閃光と共に、アンカーの円環の内側に、渦巻くような光の膜が形成された。
暴れていた光の渦は数秒で安定し、まるで窓ガラスのように透明に透き通る。
その向こう側に見えたのは、見慣れたテラ・テルマエの第一研究所の石壁と、驚いて目を見開いているヘレナやソフィアの顔だった。
「……アルド様? まさか、もう開通させたのですか!?」
ゲートの向こうから、ヘレナの肉声がはっきりと聞こえた。
同時に、研究所の乾いた空気と、テラ・テルマエ特有の微かな温泉の硫黄の匂いが、潮風の香る地下室へと流れ込んでくる。
ララが震える手で口元を覆い、ゲートの向こう側の景色を食い入るように見つめていた。
★★★★★★★★★★★
ゲートの動作確認と初期設定を終え、地上に戻った頃には、港町は完全に夜の闇に包まれていた。
海賊の脅威が去った町民たちの家々からは、安堵の笑い声と、ささやかな宴の灯りが漏れている。
俺は波の音が静かに響く桟橋の端に座り、マザーから下ろした小型の魔導コンロに火を入れていた。赤く熾った炭が、パチパチと心地よい音を立てている。
「アルドさん。お隣、いいかしら?」
背後からヒールの音を響かせ、ララが歩み寄ってきた。昼間の商談を終え、上着を脱いだ少しラフな格好だ。
「ああ。ちょうど焼けるところだ」
俺が顎でしゃくった先、コンロの網の上では、大ぶりな貝がグツグツと沸騰していた。
ゲート開通の礼として、組合長が「せめてものお祝いだ。これくらいしか出せねえが」と持ってきた、この近海で採れる殻付きの二枚貝だ。
貝の口がパカッと開き、中の肉厚な身が姿を現す。
俺はそこに、テラ・テルマエで仕込んできた黒褐色の発酵調味料と、少量の酒を混ぜた特製ダレを数滴垂らした。
ジュワァァッという音と共に、焦げたタレの香ばしさと、濃厚な磯の香りが爆発的に広がる。夜の冷たい海風に乗って、暴力的なまでの食欲をそそる匂いが桟橋を包んだ。
「うわぁ……! なにこれ、すっごくいい匂い……!」
「熱いから気をつけろよ」
俺は厚手の布で殻を掴み、小皿に乗せてララに手渡した。
彼女は「ふーっ、ふーっ」と一生懸命に息を吹きかけ、木製の小さなフォークで身をすくい上げ、口に運ぶ。
「……ッ!!」
ララが驚きに目を丸くした。
「美味しい……! 貝の旨味がすっごく濃いわ! それに、この焦げたタレの味が、磯の香りを引き立てて……こんな美味しい海産物、王都の高級料理店でも食べたことない!」
「素材が新鮮だからな。これなら、テラ・テルマエに運んでも十分商品になる」
俺も自分の分の貝を口に放り込んだ。弾力のある歯ごたえの後、貝の出汁とタレが絡み合った濃厚な旨味が舌を満たす。これは酒が欲しくなる味だ。
「ええ、間違いないわ。明日からすぐに、マザーさんの冷凍技術と併用した輸送のテストを始めるわよ。王都の貴族どもから、金貨を根こそぎ絞り上げてやるんだから」
彼女はふふっと悪戯っぽく笑い、貝殻に残った汁まで大切そうに飲み干した。
「……お前、本当に金儲けが好きだな」
俺が少し呆れたように言うと、ララは膝を抱え、夜の暗い海を見つめた。波が護岸にぶつかり、白く砕ける音が静かに響いている。
「金儲けが好きなのは事実よ。でもね、私が本当に見たいのは、この貝を食べた時の私みたいな『顔』なのよ」
「顔?」
「ええ。孤児院で育った頃、たまに寄付で甘いお菓子が配られる日があってね。その時の、みんなの幸せそうな顔が忘れられないの。……美味しいものは、人を一瞬で幸せにする魔法よ。でも、その魔法を遠くの人に届けるには、お金と、安全な道と、しっかりした流通の仕組みが必要なの」
「私は商人として、その仕組みを作る。だから、アルドさんの技術が必要なの。これからも、私に美味しいものをいっぱい見せてね」
ララはウインクをして、空になった小皿を俺に突き出した。
「おかわり。あと5個はいけるわ」
「……食い意地が張ってるだけじゃないか」
俺は苦笑しながら、新しい貝を網に乗せた。
波の音と、貝の焼ける香ばしい匂い。そして隣で完成を待つ彼女の静かな気配。
海風は冷たかったが、不思議と居心地の悪さは感じなかった。




