第63話 マザー、水陸両用形態へ
「交渉は成立ね。さあアルドさん、ちゃちゃっと片付けてきなさい」
震える組合長と固い握手を交わしたララが、振り返りざまにこちらへウインクを送ってくる。
彼女の目は、すでにこの港から王都へと続く巨大な物流と、そこから生み出される莫大な富を見据えているようだった。
「お前なぁ……まあいい。新鮮な魚のためだ」
俺は潮風を含んだ重い空気を肺に吸い込み、マザーの操縦席へ向かって歩き出した。
防壁の中で嗅ぐ土や緑の匂いとは全く違う、磯の香りと微かな腐敗臭が混ざった港町の匂い。背中の大剣を軽く叩きながら、ヴァネッサも横に並んで歩調を合わせる。
「海での戦闘なんて久しぶりだな。足場が悪いが、やれるかアルド」
「こっちには最強の重機がいる。お前は甲板から近づく敵を叩き落としてくれ」
「了解だ。……せいぜい、船酔いさせないでくれよ」
ヴァネッサが軽く膝を曲げ、しなやかな跳躍でマザーの機体上部――普段は荷台として使っている平らな装甲部分へと身軽に着地した。彼女のレザーアーマーが海風に煽られて微かに音を立てる。
俺も操縦席に収まり、慣れた手つきで各計器のチェックを済ませると、通信回線を開いた。
「マザー、海に出るぞ。水陸両用形態への換装を頼む」
『了解しました、マスター。これより水陸両用形態へと移行。各部ハッチの完全密閉、およびフロートアタッチメントを展開します』
俺の指示に応え、マザーの機関部から一段と高い駆動音が鳴り響いた。
普段は大地を踏み締めている重厚な六本の多脚が、関節部から滑らかに折りたたまれ、機体の下部へと密着していく。まるで身をすくめる巨大な甲虫のような動きだ。
同時に、側面装甲の一部がスライドし、超高密度の浮力材を内包した分厚いフロートが左右に張り出した。さらに、後部からは推進器となる二門の巨大なウォータージェットノズルがせり出してくる。
『重心バランス調整完了。防水隔壁、異常なし。進水します』
ズズンッ……!
重力に引かれるまま、マザーの巨体が深水桟橋から直接、蒼い海面へと滑り落ちた。
凄まじい水しぶきが上がり、遠巻きに見ていた港の漁師たちが悲鳴のような歓声を上げる。だが、数千トンはあろうかという鉄の塊は海の底へと沈むことなく、展開したフロートと絶妙な質量計算によって、見事に波の上に浮かび上がっていた。
「すげえ……本当に浮いたぞ……」
防弾ガラス越しに広がる、目線に近い水平線。荒野の赤茶けた景色とは全く違う、うねるような波の動きが機体を揺らす。足元から伝わる浮遊感は、大地を踏むのとは全く異なる奇妙な感触だった。
『推進器、起動。出力30パーセントで前進します』
ゴオオォォォッ!!
後部のノズルから猛烈な勢いで海水が噴射され、マザーの巨体が波を切り裂いて沖合へと進み始めた。
機体が前後に傾くのを、マザーの姿勢制御システムが即座に計算し、推進力を微調整していく。予想していたような激しい揺れはなく、波の上を滑るように進んでいく。
「ヴァネッサ、そっちの揺れはどうだ?」
『問題ない! 足元に微弱な魔力を吸着させている。これくらいなら平地の乱戦と変わらん!』
外部マイクが、強風に負けないヴァネッサの力強い声を拾う。モニター越しに見える彼女は、大剣の柄に手をかけたまま、揺れる甲板の上で微動だにせず立ち尽くしていた。さすがはSランク冒険者だ。体幹の鍛え方が常人とは根本的に違う。
港から数キロ離れた岩礁地帯。
海の色が一段と深くなり、海面から突き出た黒い岩肌に白波が砕け散っている。組合長が「サハギンの巣がある」と言っていた海域だ。
『マスター。水深5メートルから10メートルにかけて、多数の生体反応が急速に接近中。数は……六十を超えます』
「来たか。船底に取り付かれる前に散らすぞ」
海面が不気味に泡立ち始めた。
直後、バシャァッ! と波を割って、緑色の鱗に覆われた半魚人のような魔物――サハギンが数匹、マザーの装甲に取り付こうと跳躍してきた。
その手には、赤錆の浮いた銛や、沈没船から奪ったであろう湾曲した刃物が握られている。水飛沫を上げながら迫るその目は、明らかな略奪の意志を持っていた。
「遅いッ!」
ヴァネッサの鋭い呼気と共に、銀色の閃光が走った。
装甲に爪を立てようとしたサハギンたちは、空中で文字通り両断され、汚れた血を海に撒き散らしながら落ちていく。自身の身長ほどもある大剣の重量を全く感じさせない、神速の連撃だ。波の揺れに合わせて膝のクッションを使い、踏み込みの力を剣先へと完璧に伝達している。
「右舷からさらに五体来るぞ!」
「任せろ!」
甲板の上でヴァネッサが次々と迎撃していく。剣の風切り音と、魔物が海に落ちる水音が連続して響く。
だが、敵はただの獣ではない。飛びかかっても無駄だと悟ったのか、残りの群れは海中に潜ったまま、マザーの船底を狙って一斉に突撃を仕掛けてきた。
ガンッ! ゴツンッ! と、分厚い下部装甲に銛が突き立てられる鈍い音が響く。
『下部装甲に微小な物理的衝撃。装甲の貫通確率はゼロですが、このままでは鬱陶しいですね』
「ああ。一気に片付ける。マザー、水中探査用のソナーはあるか?」
『はい。対潜探信儀を装備しています。音波による地形および生体反応の精密マッピングが可能です』
「その出力を、限界まで引き上げて放射しろ」
俺の指示に、マザーが一瞬だけ沈黙した。
『……なるほど。音波は空気中よりも水中の方が速く、そして強く伝播します。対潜探信儀のパルスを超音波兵器として転用するのですね。えげつない発想ですが、嫌いではありません』
「超音波漁法だ。周囲の水域を最大出力で叩け」
『了解しました。指向性超音波パルス、発射』
マザーの機体下部から、人間の耳には聞こえない、だが海水を確かな質量で震わせる強烈な音波のうねりが放たれた。
ズンッ……!!
海面が一瞬、不自然に盛り上がり、細かい波紋が爆発的に広がった。機体を通して、ビリビリとした微細な振動が俺の足の裏まで伝わってくる。
その直後。
マザーの周囲の海域から、プカァ……プカァ……と、白目を剥いて気絶したサハギンたちが、次々と海面へ浮かび上がってきた。
武装した六十匹近い群れが、たった一撃の音波の衝撃で脳震盪を起こし、完全に無力化されたのだ。
『敵性反応、全て沈黙。完全な制圧を確認しました。……大漁ですね、マスター』
「よし。何匹か網で回収して、港へ戻るぞ。討伐の確かな証明になる」
『ラジャー』
マザーの側面から伸びたアームが網を展開し、気絶して漂うサハギンを手際よく掬い上げていく。
十分な数を回収したマザーは静かに反転し、ウォータージェットの噴射音を響かせながら、港への帰路についた。
★★★★★★★★★★★
港町ポルタの桟橋は、異様な熱気に包まれていた。
たった1時間足らずで沖合から戻ってきた鉄の巨人と、その甲板に網で山積みされたサハギンの群れを見て、組合長をはじめとする漁師たちは腰を抜かし、やがて地鳴りのような歓喜の声を上げていた。
「本当に……本当に、あいつらを一網打尽にしちまうなんて……!」
「これで文句なしね。倉庫と桟橋の鍵、預かっておくわ」
震える組合長から錆びた鍵の束を受け取り、ララが満足げに頷いている。
俺とヴァネッサは、そんな喧騒から少し離れた桟橋の端に腰を下ろし、重く湿った海風を浴びていた。
戦闘自体は一瞬だったが、海という不慣れな環境での緊張感と、波の揺れに耐える無意識の踏ん張りが、確実に肉体を疲労させていた。
「ふぅ……。いくら魔力で足場を固めたとはいえ、絶えず動く波に合わせながら剣を振るのは骨が折れるな。ふくらはぎがパンパンだ」
ヴァネッサがレザーブーツの汚れを払いながら、疲れたように息を吐く。
「お疲れさん。前衛を任せきりで悪かったな。……ほら、これでも口にしてくれ」
俺は持ち出していた布袋から、水滴のついたガラスの小瓶と、茶色い塊が入った包みを取り出した。
「なんだ、その濁った水は?」
ヴァネッサが怪訝そうな顔で小瓶を見つめる。中には、少し琥珀色がかった液体が入っていた。蓋を開けると、ツンとした独特の酸っぱい匂いが鼻を突く。
「穀物を発酵させて作った『もろみしぼり酢』を、飲みやすいように湧き水で割ったものだ。だまされたと思って一気に飲んでみろ。そして、すぐにこの塊をかじるんだ」
俺は包みの中から、不揃いに割られた黒糖の塊を一つ取り出し、彼女の手に乗せた。
ヴァネッサは匂いを嗅ぎ、少し顔をしかめたが、意を決したように小瓶の酢を口に流し込んだ。
「ッ……!! す、酸っぱ……!」
強烈な酸味に、彼女の切れ長の目が限界まで見開かれた。
だが、むせることなく飲み下した彼女の顔に、少しずつ驚きの色が混ざっていく。
「今だ、その黒い塊を食え」
俺の言葉に従い、彼女は黒糖の塊をガリッと齧った。
「……ッ!?」
ヴァネッサの動きがピタリと止まった。
ただ甘いだけではない。先ほど飲んだ酢の強烈な酸味が、黒糖の素朴で野性味のある甘みと口の中で混ざり合い、潮風で冷え疲れた身体の隅々にまで心地よく染み込んでいく。
「……なんだこれ。酢のきつい刺激が、この土みたいな塊の甘さで一気に溶けて……体の芯から、じわぁっと熱が戻ってくる」
「酢の酸味が疲れを散らして、黒糖の甘さがすぐに力に変わる。昔から伝わる、労働者のための特効薬みたいなもんだ」
俺も自分の分の酢を飲み、黒糖を齧った。
海風に晒されて強張っていた筋肉から、じわじわと凝りが解けていくのが分かる。素朴な甘さが、塩気を含んだ空気の中でことさら美味く感じられた。
「美味い……。いや、美味いというより、体がこれを猛烈に欲しているのが分かる。止まらないぞ」
ヴァネッサはあっという間に黒糖を飲み込み、二個目に手を伸ばした。
「ちょっと! 二人だけで何を美味しそうなもの食べてるのよ! 私にもちょうだい!」
組合長との話を終えたララが、小走りで近づいてきて俺の布袋を覗き込む。
「商談はまとまったのか?」
「ええ、完璧よ。これでテラ・テルマエとこの港を繋ぐ拠点は確保できたわ」
ララは得意げに笑い、俺から黒糖を受け取って口に放り込んだ。
「ふふっ、濃くて美味しい甘さ! これ、お茶請けにも最高じゃない!」
潮騒の音を聞きながら、俺たちは海辺のささやかな休憩を満喫していた。
振り返れば、夕陽を浴びて黄金色に輝くマザーの巨体と、これから拠点となる巨大な冷蔵倉庫群が見える。
あとは、テラ・テルマエとこの港を瞬時に繋ぐ『転移ゲート』を設置するだけだ。
波の音と港の喧騒が入り混じる夕景の中で、俺は温かい黒糖の余韻をゆっくりと噛み締めた。




