第60話 海へ向けた大計画
テラ・テルマエの中央区画に新設された研究所。
ガムリ親方率いる職人組とマザーの共同作業によって建てられたその堅牢な石造りの建屋は、かつてマザーの機体内部だけで完結していた解析作業が、今や都市の重要な中枢機関として独立したことを示している。
広々とした作業台の中央に置かれているのは、直径30センチほどの鈍く光る金属の円盤だった。
表面には肉眼では追いきれないほど微細な魔導回路が、幾重にも絡み合うように刻み込まれており、部屋の照明を反射して妖しく瞬いている。
「……何度見ても信じられませんわ。このナノレベルの集積回路を、鋳造もせずに無垢の金属から削り出すなんて」
ヘレナが分厚い拡大鏡を片手に、這いつくばるようにして円盤を見つめていた。その瞳は完全に古代遺物の研究者のそれだ。普段の穏やかなお姉さんの面影はなく、未知の技術に対する探求心で血走っている。
「俺の魔力を通してテストしてみたが、伝導率に一切のロスはない。古代の設計図通りの完璧な仕上がりだ。ミスリルの純度を落とさずにこの精度で削り出せるのは、あいつのプラズマトーチくらいのものだろう」
俺は手元の布でミスリル製の工具を拭き取り、作業台の上に置いた。
『はい! お兄様の魔力波長に合わせて、コンマ1ミリの誤差もなく調整済みです!』
作業台の上でホバリングしている小型ドローンが、得意げに上下に揺れた。機体の表面で水色のランプが嬉しそうに明滅している。マザーの妹分として目覚めたAI『シスター』の端末だ。
テラ・テルマエの地下で発見された超古代の遺物『転移ゲート』。
それは長らく、出口の座標を固定できずに近距離の転送実験に留まっていた。しかし、この『空間アンカー』を目的地の地面に設置して起動すれば、ここのメインゲートと空間を繋ぎ合わせ、安全かつ安定した長距離の転送網を確立できる。距離の壁という概念そのものを破壊する、まさにロストテクノロジーの結晶だ。
「アルドさん! 試作コンテナの冷却テスト、完璧だったわ!」
背後の扉が勢いよく開き、ララが鼻息を荒くして飛び込んできた。
彼女の大きな目はすでに、大金を手にしたかのようにギラギラと輝いている。
「マザーさんの断熱材とシルヴィアさんの氷魔法を組み合わせた保冷箱よ。内部に組み込んだ氷の魔石が冷気を循環させて、何日経っても中の温度は氷点下を保てるわ。これで、魚を腐らせずに運ぶ準備は整ったわね」
数日前から進められていた遠征の準備。
その目的である「南の海辺の街」への到達と、そこから新鮮な海産物を内陸へ持ち込むという前代未聞の計画に、ララは商会エリアマネージャーとしての全精力を注ぎ込んでいた。
「いよいよ明日、出発ね。向こうの港湾組合も、荒野の連中がいきなり『取引をしよう』なんて言っても、最初は鼻で笑うでしょうけど」
ララはパチンと扇子を広げ、口元を隠して獰猛に笑った。その瞳の奥には、すでに莫大な利益を弾き出す計算式が走っているのだろう。
「私たちがゲートを通って、獲れたての内陸の獣肉や、見たこともない品質の野菜を『氷漬け』で目の前に積んでみせれば、嫌でも目の色を変えるわ。そこですかさず、海産物の専属トレードと、関税免除の協定を叩きつけるの。喉から手が出るほど欲しい物流網を見せつけてやるわ」
「頼もしいな。交渉ごとは俺の専門外だ。現地の根回しは全てお前に任せる」
「ええ、大船に乗ったつもりでいてちょうだい」
俺が言うと、ララは満足げに頷き、さらに細かな買い付けのリストを確認しながら風のように部屋を飛び出していった。
遠征のメンバーは、俺とララ、そして護衛のヴァネッサの3人だ。マザーは巨体ゆえに目立ちすぎるため、留守の防衛を任せている。広場の方からは、同行を楽しみにしているヴァネッサが、「海の魔物は美味いのか?」などと物騒なことを呟きながら大剣を研ぐ音が聞こえてきていた。エルフの農夫たちも、初めて海を越えて自分たちの作物が売られるとあって、最高品質の野菜をコンテナに積み込む作業を張り切って進めている。
「……さて。俺も出発の前に、やっておくことがあるな」
俺は作業台を片付け、研究所を後にした。
★★★★★★★★★★★
夕暮れ時。
西の空が赤く染まり、街のあちこちから夕飯の支度をする煙が上がり始めていた。
俺が向かったのは、居住区画の端にあるギルド支部だ。
ノックをして執務室の扉を開けると、そこには予想通りの光景があった。
「第3区画の配管工事の申請は、明日の午前中までにエルフの代表の承認を得てください。備蓄庫の在庫リストは机の上に。3分で目を通します。それから、新規難民の受け入れテントの割り当てを……」
書類の山に囲まれ、複数の事務員に的確な指示を出しながら、恐ろしい速度でペンを走らせているソフィアの姿があった。
顔にはいつもの隙のない微笑が貼り付いているが、その目元には隠しきれない疲労の色がうっすらと浮かんでいる。急激に拡大する街の行政手続き、難民の就労支援、各施設の連携調整など、そのすべてが彼女の双肩にのしかかっていた。
俺は無言で彼女の背後に回り、書類の山からそっとペンを抜き取った。
「あっ……領主様? 何を……」
「今日の業務は終了だ。ソフィア、少し休め」
「ですが、まだ明日の農地拡張の認可が……」
「マザー。ソフィアの執務印を一時的に預かっておいてくれ。受理受付は明朝まで保留だ」
『了解しました。ギルド支部の決裁システムを一時凍結します』
スピーカーからマザーの容赦ない声が響くと、ソフィアは「ああっ」と小さく声を上げ、がっくりと肩を落とした。
「……相変わらず強引ですね、貴方は」
「お前が根を詰めすぎるんだ。ほら、立つんだ。美味いものを用意した」
俺は半ば引きずるようにしてソフィアを執務室から連れ出し、街を見下ろせる高台のテラスへと向かった。
そこは最近、ガムリの親方たちがエルフたちと共同で休憩所として整備した場所で、ヒノキに似た香りのする木材がふんだんに使われている。街で一番見晴らしの良い縁側のような場所に、小さな足湯が設けられていた。
「座って、ブーツを脱げ。冷えは万病の元だぞ」
俺に促され、ソフィアは渋々といった様子で足湯に浸かった。
チャプン、と静かな音が鳴る。
適温に調整された黄金色の湯が、彼女の足を包み込んだ瞬間。
「…………はぁぁ…………」
ソフィアの口から、魂が抜けるような深いため息が漏れた。
完璧に維持されていた微笑がスルスルと溶け落ち、ただの疲れた1人の女性の素顔があらわになる。
「効くだろ?」
「……反則です。こんなものを味わってしまったら、もう書類の束には戻れませんわ」
俺は苦笑しながら、持参した保温容器を開けた。
湯気と共に、強烈なスパイスの香りが夕暮れの空気に広がる。鼻腔をくすぐるクミンやコリアンダーに似た刺激的な匂い。
「夕飯には少し早いが、軽食だ。疲れると辛いものを食べたくなる性質だったな」
俺が取り出したのは、深めの木皿に盛られた煮込み料理だ。
荒野で採れた野鳥の肉と数種類の豆をトマトで煮込み、そこに南方の強烈な辛味を持つ赤い香辛料をたっぷりと効かせている。上には濃厚な白いチーズを乗せ、熱でとろりと溶かしてあった。添えられた硬焼きパンは、鍋の底のスープを拭って食べるためのものだ。
ソフィアは目を丸くし、それからゴクリと喉を鳴らした。
「……貴方という人は。本当に、どこまで私の胃袋を把握しているんですか」
彼女は匙を受け取り、真っ赤なスープととろけるチーズをすくって口に運んだ。
「……ッ!!」
ソフィアの端正な顔が、わずかに驚きに見開かれた。
直後、強烈な辛味が舌を刺し、喉を焼く。だが、その背後から鳥肉の強い旨味と豆の甘み、そしてチーズの濃厚なコクが押し寄せてきて、辛さを完璧なバランスで包み込んだ。
「ふぅっ……」
ソフィアは小さく息を吐き、額にうっすらと汗をにじませた。
そして、匙を動かす手が止まらなくなった。
黙々と、だが明らかに歓喜に満ちた表情で、激辛の煮込みを平らげていく。時折、辛さに小さく唇を震わせながらも、スプーンを口に運ぶペースは少しも落ちない。額に浮かんだ汗が夕日に照らされて光り、張り詰めていた彼女の神経が少しずつ解きほぐされていくのがわかった。最後は添えられた硬焼きパンで皿に残ったソースまで綺麗に拭い取り、満足げな吐息を漏らした。
やがて皿が空になると、俺は冷たい果実水を差し出した。
ソフィアはそれを受け取り、喉を潤してから、深く息をついて俺の顔を見た。
その表情は、いつもの張り詰めたものではなく、憑き物が落ちたように穏やかだった。
「……悔しいですが、完璧な辛さでした。頭の中のモヤモヤが、瞬く間に燃え尽きた気分です」
「お粗末様。少しは肩の力が抜けたか?」
「ええ。おかげさまで」
ソフィアは足湯の中でパチャパチャとつま先を動かし、眼下に広がるテラ・テルマエの街並みを見下ろした。
あちこちの家から夕食の煙が上がり、広場ではエルフの子供たちとシロが駆け回る姿が小さく見える。遠くの工房からは、まだカンカンと鉄を打つ音が微かに響いていた。
「明日から、少し留守にする。面倒をかけるな」
俺が切り出すと、ソフィアは静かに頷いた。
「空間アンカーの設置ですね。……ゲートが繋がり、新しい物流の道ができれば、この街はさらに大きく変わるでしょう。今までは荒野の孤島だったこの場所が、世界と直接繋がる拠点になる」
「その分、お前の仕事も増える。今のうちに休ませておかないと、過労で倒れられちゃ困るからな」
「誰のせいで仕事が増えていると思っているんですか」
ソフィアは呆れたように笑った。
そして、視線を街に向けたまま、ぽつりと呟いた。
「貴方が外へ新しい道を繋げている間、ここが揺るがないように守るのが、私の役目ですから」
夕風が吹き抜け、ソフィアのダークブラウンの髪を揺らした。
辛いものを食べて血色が良くなった彼女の横顔は、薄暗くなり始めた空の下で、ひどく穏やかだった。
「行ってらっしゃいませ、アルドさん」
「ああ。頼んだ」
足湯の微かな水音だけが、静かな夜の空気に溶けていった。




