第59話 シロの新しいお友達
テラ・テルマエの朝は、澄み切った冷たい空気と、人々の生活が発する熱気に満ちている。
拡張を続ける防壁の内側では、エルフたちが畑で収穫の声を上げ、ドワーフの職人たちが新しい工房の骨組みを組み上げる甲高い槌音が響き渡っていた。「そこの建材、もう少し右だ!」というガムリ親方の力強い怒声が聞こえる。朝食を作る共同炊事場からは、香ばしく焼けた丸パンや野菜スープの匂いが立ち昇り、風に乗って広場へと流れてきていた。
その広場の中心で、朝の光を反射する銀色の巨体が、右へ左へと忙しなく跳ね回っていた。
かつては俺の手のひらに収まるほどの毛玉だった我が家の愛犬シロは、マザーの徹底した栄養管理の甲斐あって、今や体高1メートルに迫る立派なシルバーウルフへと成長を遂げている。発達した四肢が地面を蹴るたびに、赤茶けた土が勢いよく後方へ吹き飛んだ。
「わふっ! くぅーんっ!」
シロは短い悲鳴のような声を上げながら、前足を高く跳ね上げ、空中の何かを捕まえようと躍起になっていた。だが、標的はシロの爪先を嘲笑うかのように、鋭角的な軌道を描いてヒュンッと上空へ回避してみせる。
シロが追っているのは、蝶や鳥ではない。掌にすっぽりと収まるほど小さな、多脚型の銀色のドローンだった。
『シロちゃん、すごいすごーい! 私の観測用ドローンの最高速度に、ちゃんとついてきてます! マザーお姉様の作ったご飯をたくさん食べてるから、体力もバッチリですね!』
広場の端に鎮座する白銀の多脚戦車――先日、北の古代遺跡からマザーと共に連れ帰った妹分AI、シスターの機体上部から、鈴を転がすような少女の声が響く。
水色の単眼を嬉しそうに明滅させながら、シスターは極小のドローンを器用に操り、シロの鼻先をかすめたり、フェイントをかけたりして遊んでいる。シロはドローンに鼻先をぶつけて小さくくしゃみをしながらも、再び楽しそうに追いかけ始めた。巨体の狼が、自分より遥かに小さな機械の虫に翻弄されてグルグルと回っている姿は、どこか滑稽で愛らしい。
「おはよう、シスター。シロの相手をしてくれて助かるよ。最近は力が有り余っているみたいでな。昨日はララの荷馬車を追いかけ回して怒られていたし」
俺が近づいて声をかけると、シスターの単眼がクルリとこちらを向いた。
『あっ、アルドお兄様、おはようございます! あのですね、実はシロちゃんにプレゼントを作ってみたんです!』
「プレゼント?」
『はい! こないだ、ララさんが持ってきた荷引き用の革のハーネス、シロちゃんすっごく嫌そうにしてたじゃないですか。だから、もっと軽くて動きやすくて、シロちゃんにピッタリのものを私が作っちゃおうと思って!』
シスターの流線型のボディの側面から、数本の極細のアームが滑るように展開された。
アームの先端が青白く発光し、微細な粒子が集束していく。空中の物質が瞬く間に編み込まれ、銀色の糸となってひとつの形を成していく。チカチカと極小の火花が散り、目にも留まらぬ速さで生地が織り上げられていく。
ほんの数十秒。アームが紡ぎ出したのは、シロの巨体に合わせた極薄のウェアだった。
『ジャーン! ミスリルの繊維と古代の断熱材を編み込んだ、特製の防護服です! これならすっごく軽いし、寒い日でもぽっかぽかですよ。お兄様、シロちゃんに着せてみてください!』
俺が受け取って広げてみると、それは首元から背中、腹部まですっぽりと覆う、銀白色のしなやかなコートだった。手触りは絹のように滑らかで、金属繊維でできているとは到底思えないほど軽い。
俺がウェアを手にしゃがみ込むと、シロがドローン遊びをやめて近づいてきた。
鼻を近づけ、フンフンと匂いを嗅いでいる。未知の物体への警戒心か、少しだけ耳が後ろに倒れていた。
「大丈夫だ、シロ。お前を守るための服だ。少し試してみろ」
俺はシロの首にウェアの襟元を通した。シロは一瞬身を強張らせたが、ウェアがシロの体温と体型を感知して自動的に収縮し、ピタリとフィットした瞬間、不思議そうに瞬きをした。
重さも締め付けも感じないのだろう。シロはブルブルと体を一度大きく震わせると、「わうっ!」と嬉しそうに一声吠え、再び空中のドローンを追いかけて猛然と走り出した。
その足取りは、服を着る前よりも心なしか軽快に見える。
「完璧だな。関節の動きもまったく邪魔してないし、被毛の擦れも計算されている」
『えへへっ、お兄様に褒められました! 嬉しいです!』
シスターの単眼が、誇らしげに点滅した。
「あら。なんだか随分と洗練された番犬になったわね」
背後から、ゆったりとした艶やかな声がした。
振り返ると、鮮やかな青いドレスを着たザラが立っていた。腰にはいつものように、いくつかの小瓶と薬草袋がぶら下がっている。
「ザラ。療養所の方はいいのか?」
「ええ。ソフィアさんが難民たちの健康診断の割り振りをキッチリこなしてくれたおかげでね。今は少しだけ、手が空いているの。あの人、山のような書類を物凄い速度で捌きながら、私に『少し休んでください』って笑うのよ。本当に底知れないわ」
ザラは滑るような足取りで俺の隣に並び、銀色の弾丸となって広場を駆けるシロの姿を細めた目で見つめた。
「ねえ、アルド。少し私に付き合ってくれないかしら」
「付き合う?」
「ええ。新しい薬草を探しに行きたいの。北の岩場の方へね。……最近、少し人が増えすぎて窮屈だったから。たまにはソフィアさんたちの目を盗んで、外の空気を吸いたいのよ」
彼女は小さく息を吐き、俺の顔を下から覗き込むように微笑んだ。
冗談めかしてはいるが、毎日何十人規模で押し寄せる難民たちの受け入れに伴う医療体制の拡充や、慣れない環境での体調不良者のケアは、確実に彼女の肩に重くのしかかっているはずだ。息抜きが必要なのは事実だろう。
「分かった。荷物を取ってくる。少し待っててくれ」
★★★★★★★★★★★
テラ・テルマエの防壁から北へ数キロ。
そこは、険しい岩山と石化した枯れ木が複雑に入り組む地帯だった。冷たい風が吹き抜ける荒涼とした景色の中を、俺たちは黙々と進んでいく。
ザラは足場の悪い岩肌を、ドレスの裾を翻しながら軽やかに登っていく。背筋の伸びた無駄のない歩き方は、流浪の薬師として荒野を渡り歩いてきた経験の長さを物語っていた。
「あったわ。これよ」
ザラがある岩の陰で立ち止まり、しゃがみ込んだ。
彼女の細い指先が示した先には、赤茶けた土と岩の隙間に張り付くように生えている、紫色の小さな花があった。
「夜泣き草ね。強い鎮静作用があるの。難民の中には、夜になると過去の恐怖を思い出して眠れない子供たちがいるから。これの根を煎じて飲ませれば、朝までぐっすり眠れるわ」
「なるほどな」
俺は腰のポーチからミスリルの小型ナイフを取り出し、膝をついた。
根を傷つけないよう、岩の隙間の土に刃先をそっと差し込む。微量の魔力を通して周囲の岩盤だけを脆くし、土ごと丁寧に掘り起こした。独特の土の匂いと、微かな甘い香りが漂う。
「手際がいいわね。根の先端までまったく傷がついてない」
ザラが、俺の手元を見つめながら呟いた。
「ただの草むしりの延長だ。道具の使い方が分かってるだけさ。ほら、袋を開けてくれ」
俺は土を軽く払った夜泣き草を、ザラが差し出した布袋にそっと入れた。
数種類の薬草を採取し終えた後、俺たちは見晴らしの良い平らな岩の上で休憩することにした。
眼下には、遠く霞むテラ・テルマエの防壁と、その内側に広がる緑の農地が見える。
「少し早いが、軽食にしよう」
俺はバックパックから、保温機能付きの魔導水筒と、紙に包まれた携帯食を取り出した。
包みの中身は、薄くスライスした塩漬けの獣肉と、酸味の強い赤い果実のペースト、そして香りが強く舌が痺れるような香草を、硬焼きのパンで挟んだものだ。
ザラはそれを受け取り、小さくかじった。パリッとパンが割れる音の後に、彼女の目が少しだけ丸くなる。
「……美味しい。噛むほどに出るお肉の強い塩気を、この果実の酸味が綺麗に中和してくれるわ。それに、この香草の刺激……私の好みを、ちゃんと分かっているのね」
「療養所でいつも、スパイシーな茶を飲んでるのを見たからな。口に合ってよかった」
俺は水筒から、冷やしたミントのような清涼感のある茶を木の杯に注ぎ、彼女に渡した。
ザラは杯を受け取ると、冷たい茶で喉を潤し、再び眼下の街並みへと視線を向けた。風が吹き抜け、彼女のドレスの裾が静かに揺れる。
「私がいた南の国はね、上に立つ人間が欲をかきすぎて自滅したわ。民の生活をすり減らして、やがて砂漠の砂に埋もれていった。……この北の大陸の王国も、結局は同じ末路を辿ったわね」
彼女の大きな瞳が、静かに伏せられた。その眼差しは、凄惨な滅びの歴史を幾度も見てきた、冷徹なリアリストの色を帯びていた。
「でも、ここは不思議な場所ね。故郷を追われたエルフたちや、寄せ集めの難民、古代の鉄の塊、それに……追放された無愛想な職人。そんなちぐはぐな要素が組み合わさって、こんなに息のしやすい街を作っている」
ザラの細い指先が伸び、俺の手にそっと触れた。
薬を手際よく調合するしなやかな指先から、大人の女性の落ち着いた体温が伝わってくる。
「貴方の手は、ただ黙々と必要なものを作るだけ。……それが一番、頼りになるわ」
静かな岩場。風の音しか聞こえない空間で、彼女は微かに口角を上げて微笑んだ。
俺は自分の無骨な手と、それに触れる彼女の指を見下ろし、小さく肩をすくめた。
「俺は、自分が快適に眠って、美味い飯を食うために作ってるだけだ。結果的にそれが、皆の生活の都合に合ってるなら、それでいい」
「……ふふっ。本当に、どこまでもブレない男ね」
ザラは指を離し、楽しげに笑った。先ほどまでの疲労の色は、いつの間にかすっきりと晴れているように見えた。
「さあ、もう少し採取を続けましょうか。貴方のその便利な手、今日は私のためにたっぷりと使わせてもらうわよ」
★★★★★★★★★★★
拠点に戻ると、空はすでに美しい茜色に染まっていた。
防壁の門をくぐると、俺たちの帰還を察知したのか、銀色の弾丸が真っ先に飛び込んできた。
「わふっ! わんっ!」
シスターの特製ウェアを着こなしたシロだ。
あれだけ広場を走り回って土を掘り返していたはずなのに、ウェアには泥汚れ一つついていない。どうやら完璧な防汚機能も備わっているらしい。
『お帰りなさいませ、お兄様! ザラさんも、お疲れ様でした!』
広場の奥から、シスターの元気な声が響く。その隣では、マザーが機体の整備をしながら静かに単眼を瞬かせていた。
「ああ、ただいま」
俺は膝に飛びついてきたシロの頭を撫でながら、夕日に染まる街を見渡した。
あちこちの家から、夕食の支度をする煙が上がり始めている。エルフの子供たちが家路につき、職人たちが道具を片付ける音が聞こえる。
俺は足元の銀色の毛玉の温もりを感じながら、今日の夕飯の支度に取り掛かるべく、居住ユニットへ向けて歩き出した。




