第57話 転移ゲート、対の座標
テラ・テルマエの空は今日も高く澄み渡り、心地よい風が荒野を吹き抜けていく。
王国軍との死闘からしばらく経ち、難民たちの受け入れもようやく一段落した。新たに加わったドワーフの職人たちや人間の農夫たちは、エルフたちと協力して新しい居住区や工房の建設に精を出している。
防壁に守られた要塞都市は、これまでにないほどの活気と熱気に包まれていた。
そんな賑やかな日常の中で、俺は束の間の休息を楽しんでいた。
居住ユニットのテラスで、俺は手の中にある乾燥肉をちらつかせながら、目の前で期待に満ちた瞳を輝かせる相棒と向き合っていた。
今や体高一メートルに迫る立派な銀狼へと成長し、俺を押し倒すほどの巨体となったシロだが、すっかり「お手」や「おかわり」をマスターした彼に、今日は新しく「伏せ」を教えていたのだ。
「よしシロ、いくぞ。……伏せ」
俺は手を平らにして、ゆっくりと床の方へ下げていく。
シロは一瞬だけ小首を傾げたが、俺の手の動きと視線を追うようにして、前足をスルスルと前方に滑らせ、フサフサの胸毛とお腹を床にペタリとつけた。
そして、伸ばした前足の間にあごを乗せ、上目遣いで俺をじっと見つめてくる。
巨体になっても、仕草は仔犬の頃と変わらない。完璧な「伏せ」の姿勢だ。
「……お前、本当に賢いな」
俺は思わず感嘆の声を漏らし、手の中の乾燥肉をシロの口元へ運んだ。
シロは優しくそれをくわえ取ると、ハグハグと咀嚼してゴクリと飲み込み、すぐさま立ち上がって俺の顔をペロペロと舐め回してきた。
褒められたことが嬉しくてたまらないらしい。
「うおっ、重い! まったく、図体ばかりデカくなりやがって」
俺は押し倒されそうになりながらも顔をほころばせ、柔らかな銀毛を思う存分に撫で回した。毛並みは以前よりさらに艶を増し、陽光の下で白銀の輝きを放っている。
『素晴らしい学習能力ですね。言語の理解力と身体の連動性、共にシルバーウルフの平均値を大きく上回っています。これも私の徹底した栄養管理の賜物ですね』
テラスの脇に控えていたマザーが、感心したような、そして少し誇らしげな音声を流す。
「ああ。これなら、複雑な指示でもすぐに覚えそうだ。一緒に狩りに出る日も近いかもしれないな」
『シロちゃんなら、立派な狩人になれますよ。何しろ、我がテラ・テルマエの防衛隊長ですからね』
俺がシロの背中をポンポンと叩いていると、遠くから弾むような足音が近づいてきた。
「アルド様! マザーさん! 大発見ですわ!」
現れたのは、分厚い羊皮紙の束を抱えたヘレナだった。
彼女の目の下にはうっすらと隈ができているが、その表情は極度の興奮で赤く紅潮している。新たな古代の謎を前にした時の、彼女特有の熱を帯びた顔つきだ。
そして、彼女の後ろからは、滑らかな足取りで白銀の小型重機――シスターがついてきていた。
『お兄様、お姉様! ヘレナ様と一緒に私の記憶庫を整理していたら、とても興味深い記録の復元に成功したんです!』
シスターの水色の単眼が、嬉しそうにチカチカと明滅している。
俺はシロを撫でる手を止め、立ち上がった。
「大発見って、なんだ?」
「これを見てください!」
ヘレナはテラスのテーブルの上のカップを端に寄せ、抱えていた羊皮紙をバサッと広げた。シスターが極細のアームを伸ばし、丸まりがちな羊皮紙の端を器用に押さえてくれる。
そこには、俺たちが見慣れたテラ・テルマエ周辺の地形図だけでなく、大陸全体の広大な地図が描かれていた。
海岸線や山脈、そして深い森の分布までが緻密に記されている。
さらに、その地図の上には、赤や青の細かな点が無数に打たれており、それらを繋ぐように複雑な線が幾何学模様のように引かれている。
「これは、超古代文明期における『大陸間転移網』の接続図です。シスターさんの記憶庫の深層に、暗号化されて眠っていたものを解読しましたの」
「転移網……。ってことは、あの『空間転移ゲート』の設置場所か」
俺は息を呑んだ。
以前、廃棄されたダンジョンから回収し、俺とマザーの力で修復した古代の遺物。
現在、第一研究所の奥に鎮座しているあの巨大な金属の輪は、近距離の物体転送には成功したものの、本格的な長距離転送を行うには「対となる出口」の明確な座標が必要だった。
「その通りですわ。かつて大陸中の物流を担っていたという転移網の全容が、これです」
ヘレナの細い指が、地図上の無数の赤い点をなぞる。
「ですが、残念ながら大半のゲートは、数千年の地殻変動や魔力枯渇によって完全に破壊されるか、機能を停止しています。この赤い点が、沈黙している座標です」
「つまり、ほとんど全滅ってことか」
「ええ。……ですが、シスターさんの通信機能を使って、この地図上の座標に向けて微弱な探査信号を送ってみたところ、ただ一つだけ、かすかに『応答』を返してきた場所があったのです」
ヘレナの指先が、地図のずっと下――南の方角にある、一つの青い点で止まった。
「ここです。テラ・テルマエから遥か南、大陸の果て。……海辺の街ですわ」
「海……!」
俺は思わず声を上げた。
海。
果てしなく広がる塩水と、独自の生態系を持つ広大な青の世界。
この乾燥した荒野や、エルフたちの森、そして内陸の王都しか知らない俺たちにとって、それは古い絵本や伝承の中でしか見たことのない幻のような場所だった。
『はい、お兄様。地形データと照合した結果、そこはかつて大規模な港湾施設が存在した地域と推測されます。応答信号は極めて微弱ですが、ゲートの基幹部分は今も機能を保っている可能性が高いです』
シスターの報告を聞き、俺の心臓は大きく跳ねた。
転移ゲートが繋がれば、それは単なる移動手段の確立にとどまらない。
南の海辺の街。
そこにあるということは、すなわち。
「……海の魚が、食えるのか」
俺の口から、ポツリとそんな言葉が漏れた。
今まで俺たちが食べてきたのは、荒野の獣か、地下湖で獲れる淡水魚ばかりだった。マザーの調理技術や香辛料のおかげでそれらも十分に美味いが、やはり海の魚が持つ強烈な旨味と豊富な種類には敵わない。
脂の乗った巨大な海魚、殻に濃厚な旨味を隠し持つ甲殻類、そして何より。
「塩だ。良質な『海の塩』が手に入るかもしれない」
岩塩ではなく、海水を煮詰めて作るまろやかで豊富なミネラルを含んだ塩。
それがあれば、料理の味はさらに一段階上の次元へと引き上げられる。干物や保存食作りの幅も劇的に広がるはずだ。職人としての探求心が、ふつふつと湧き上がってくるのを感じた。
「ちょっとアルドさん! 今、聞き捨てならない言葉が聞こえたわよ!」
背後から、ヒールの音を荒々しく響かせて飛び込んできたのはララだった。
彼女はテーブルの上の地図を覗き込み、ヘレナが指し示している青い点と、俺たちの顔を交互に見比べた。
「南の海辺の街……それに、転移ゲート?」
彼女の目が丸くなり、そして瞬きを数回繰り返す。頭の中で猛烈な速度で情報が結びついていくのが分かる。
やがて、彼女の顔に浮かんだのは、純粋な驚愕から、底知れぬ商魂へと切り替わる瞬間の笑みだった。
彼女は目を金貨のように輝かせ、テーブルをバンッと叩いた。
「……これ、もし開通したら、私たち海産物の独占輸送ルートを手に入れられるってことじゃない!」
商魂たくましい彼女の頭の中では、すでに莫大な利益の計算が始まっているようだ。
「シルヴィアさんの氷魔法と、マザーさんの断熱材を組み合わせれば、新鮮なまま魚を運べるわ! 荒野のど真ん中で、獲れたての海の幸が食べられるなんて奇跡よ。それを他国や貴族に売り込めば、金貨が雨のように降ってくるわ! アルドさん、今すぐその南の街へ行きましょう!」
「落ち着け、ララ。行くにしても、相手の状況がまったく分からないんだ。向こうのゲートが土の中に埋まっているかもしれないし、凶悪な魔物の巣窟になっている可能性だってある」
俺が冷静に窘めると、ララは「むぅ」と唇を尖らせた。
「でも、行く価値は十分すぎるほどあるわよ。……それに、アルドさんだって海の美味しいご飯、作ってみたいんでしょ?」
ララの悪戯っぽい視線に、俺は反論できなかった。
図星だ。職人として、そして料理を愛する者として、未知の新鮮な食材の山を前にして足踏みをする気など毛頭ない。
『マスター。南の海辺までの予想走行距離は、約八百キロ。途中の地形は未踏の荒野と山脈が連続します。ですが、私の走破力であれば、十日もあれば到達可能です』
マザーが静かに進言する。
『それに、もし向こうのゲートを無事に起動できれば、帰りは一瞬です。……いかがいたしますか?』
俺は地図上の青い点を見つめた。
テラ・テルマエの生活基盤は、エルフたちや職人たちの手によってすでに安定している。ソフィアの行政手腕やリーリャの統率力があれば、俺が数日留守にしたところで、街の機能が止まることはないだろう。
ならば、領主として、この街のさらなる発展のために動くべきだ。
「……決まりだな」
俺は顔を上げ、仲間たちを見回した。
「準備を整え次第、南の海辺の街へ遠征に出る。目的は『対のゲートの起動』と、海の幸の確保だ」
「やったわ! すぐに商会用の荷馬車と、買い付け用の資金を準備するわね!」
ララが歓喜の声を上げて駆け出していく。
「私も同行したいところですが……この街の古代遺物の解析が山積みですので、お留守番をしておきますわ。……美味しいお土産、期待していますね」
ヘレナが微笑みながら眼鏡を押し上げる。
「わふっ! わおぉぉんっ!」
シロが俺の足元で、自分も行くと言わんばかりに力強く吠えた。
「ああ、シロも一緒だ。初めての遠出になるな」
俺が頭を撫でてやると、シロは嬉しそうに尻尾を振りちぎらんばかりに揺らした。
俺は地図上の青い点を見つめ、静かに息を吐いた。
足元では、遠征の予感に興奮したシロが、もう一度力強く吠えた。




