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<注意>第37回小説すばる新人賞 落選作品 を改稿したものです
日の落ちる時間が長くなった、と、タロウくんは思いました。
午後六時の空はうっすらと暗くなっていますが、西の方に目を向ければ、紅い西日が山稜からのぞいています。それは誰が見てもはっとするほどに美しい光景でしたが、タロウくんはすぐに視線を下ろし、石畳に向いてしまいます。
地上の景色に興味なんてありません。景色だけでなく、自然にも、生き物にも、人間にだって、タロウくんにはどうでもいいことです。
地上に落とされて、二年が過ぎました。その間、祖父江さんの紹介で、うどん屋で働くことになりましたが、そこで得られるものと言えば、毎月定期的に支払われる給料くらいで、自分の心が変わるような何かは得られていません。
いつかのとき……それは、くーちゃんが来るずっと前……祖父江さんがタロウくんに名前をつける際、こんな話をしました。
「天界に帰りたくないのですか?」
「どうだっていい」
「じゃあ、やりたいことはないんですか?」
「とくに」
なんの特徴もないですねぇ、と、祖父江さんはテーブルに頬杖をつきます。
「なんだか、名前を考えるのも面倒なので、タロウくんって呼んでいいですか?」
どんな名前だろうとかまわなかったので、肩をすくめておきました。
すると、祖父江さんは途端に、なにかがわかったかのように微笑みました。
「とりあえず、ここに住むだけの家賃を払ってほしいので、働きましょう。知り合いのうどん屋さんを紹介するので、そこで働いてください」
他のひとを見てみましょう、と、祖父江さんは言います。
「他のひとを見て、話していけば、きっと答えは見つかりますよ」
「人間が答えをくれんの?」
「いいえ、あなたが自分で見つけるんです」
そのときはバカにするように鼻を鳴らすだけでした。大天使様の問いに答えなんてない、と、タロウくんは断定していました。
そんなことを思い出したせいでしょう。
夜の色が濃くなっていく町を歩きながら、大天使様に出された問いを思います。
——働くとはなにか。
大天使様がタロウくんのどんな態度に腹を立てたのかはわかりません。最初はタロウくんも、地上に落とされるのに反発したような気もします。ただそれは、地上がどんなところかわからない不安からくる反発でした。地につけた両足が地面の硬さを覚えるころには、天界に帰ることを諦めていました。
大天使様がどういうつもりで地上に落としたのか。
きっと、答えのない問いを出し、ならず者の天使を天界から追放するのが目的だと、タロウくんは考えました。だから、答えを見つけようともがく意味がない。ナルちゃんのように、なんとしても天界に帰ろうとして、絶望して、自暴自棄になって、力を使い果たすなんて、馬鹿げている。
それでもなお、ナルちゃんは人間を愛している、と言います。ナルちゃんの場合、かなり屈折した愛情を持っているようですが、タロウくんには、そんな愛情さえ湧きません。真っすぐだろうと歪んでいようと、人間に愛情を持てるナルちゃんのことが、よくわかりませんでした。
よくわからないと言えば、くーちゃんのことも、タロウくんはよくわかりません。ここに来たときは、人間のことをあんなに愚かだと言っていたのに、いつのまにか、人間の子どもと会話する仲になっていて、そのうえ、人間のために力を使うまでになっていました。それどころか、天使らしさがなくなって、嘆くどころか、ヒバリのペンダントを求めて、冷たい川に飛びこむという、とんでもないことをやってのけました。
ふたりの姿を見ていると、タロウくんは、胸のあたりがそわそわします。すべてはあのときから——くーちゃんがソラを助けに飛び出していったのを、玄関で見送るしかできなかったとき——あれがすべての発端です。
焦り。
不可解。
もどかしさ。
そういった感情が一緒くたになって、タロウくんの背中を押して、くーちゃんの背中を追わせように急かしてきます。それが不快で、できるだけ目をそらすようにしていました。目をそらして、眠って、翌朝になれば、そういった不快感は消えています。ですが、ここ最近は、ふとしたときに思い出して、また目をそらすという日々が続いています。
いい加減、この不快感から解放されたい。
しばらく、ふたりと距離を取ろう。
……そう思っているときに限って、一番会いたくないひとと出会うもの。
ゲストハウスの玄関を開けた直後、タロウくんの目の前に、小さな影が現れました。
「遅い」
くーちゃんです。風邪はもう治って、どこかに出かけるつもりでしょう。私服を着て、その上に、人間の子どもからもらったというマフラーと手袋をしています。タロウくんは目をあわせないように、上がり框に腰を下ろします。
「いつ帰ろうと、おれの勝手だ」
「あたしは今日、あんたに用があったの」
「勝手だな、おまえ」
タロウくんは荒々しく靴を脱ぎます。
「あんたの力、貸してほしい」
タロウくんの身体が固まります。くーちゃんのことを、ずっとよくわからないと思っていましたが、ますますわからなくなりました。わがままで、生意気で、傲慢という言葉を一身に背負ったような天使の口から、「力を貸してほしい」なんて、そんな言葉が飛び出すなんて……
くーちゃんは言います。
「天使の力を使って、ヒバリのペンダントの行方を追ってほしい。それで、どこにあるかわかるだけでいいの。お願い」
タロウくんは脱ぎ散らかした靴を見下ろして、
「どうしたんだよ、おまえ。人間のこと、愚かだって思ってたろ。それがどうして、いまになって、人間のために、力を尽くそうとしてんだ」
「……わからない」
「またそれだ」
タロウくんは声を絞り出し、
「おれの力だ。どう使うかは、おれが決める」
「じゃあ、いま、あたしのために使って」
「わがままだ」
「そうかも」
「おまえのわがままに、おれを巻き込むな」
「でも、お願い」
「おまえ、ほんといい加減にしろ——」
勢いに任せて振り向いて、タロウくんは言葉を失くします。
くーちゃんが、頭を下げていました——前髪は垂れ下がり、うなじが見えるくらい、深く、深く——くーちゃんは、何かをこらえるような調子で言います。
「ここで動かなきゃいけない。いま動かないと、あたし、明日になったら、もうこんなふうに考えられない。眠気に任せて寝て、次の日起きたら、いま思っていることがぜんぶ夢の中に消えていく……それが嫌なの」
くーちゃんは顔を上げません。タロウくんの返事があるまで、頑として動かないつもりのようです。
タロウくんは目を細めます——天使なのに頭を下げて情けない、同じ天使として恥ずかしい、そんな姿見たくなかった——いくらでも言いようはありました。でも、タロウくんには、いまのくーちゃんがまぶしくて……
タロウくんは脱ぎ散らかした靴に手を伸ばし、履き直します。くーちゃんが顔を上げるより先に、玄関を出ていきます。いま、くーちゃんに、自分の前を歩いてほしくない。自分がくーちゃんに追いすがるような体面にしたくありませんでした。
振り向かずに言います。
「一回だけだ」
くーちゃんは慌てて靴を履き、タロウくんの背中を追いました。
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