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10-3

<注意>第37回小説すばる新人賞 落選作品 を改稿したものです

 十時過ぎ、でしょうか。



 きいっと扉が開く音が聞こえて、くーちゃんはうっすらと目を開けました。誰かがまた、お見舞いに来たのでしょう。くーちゃんを起こさないようにすり足をしていますが、すでに目を覚ましているので、あまり意味はありません。



 その人は、そっと、くーちゃんの顔を覗きました。



「起こしてしまいましたか」



 ヒバリが申し訳なさそうに目を伏せます。



「起きてたから、いいわよ」



「……祖父江さんに聞きました。川に落ちたって」



 無言で肯定します。

 ヒバリは床に座り込んで、ベッドの縁に背中をあずけました。



「すいません、わたしのせいですよね」

「なんで?」

「もしかして、くーちゃん、ペンダントを探そうとしてくれたのかな、って」



 そんなこと、少しも考えませんでした……いえ、いまとなっては、それもよくわかりません。川に落ちる前、くーちゃんは何を考えていたのでしょう。ヒバリが言ったように、自分がやってしまった過ちを取り返そうと、ペンダントを求めて飛び込んだのかもしれません。もしかしたら、ただ川面をのぞいていただけだったのかもしれません。いつかのヒバリのように……



 くーちゃんの口がかすかに開きます。罪を告白する気でいました。

 ヒバリのペンダントを取ったのはあたしだ。

 あたしは天使で、天界にいるときにいたずらをした。

 あんたはその被害者だ。

 ……と、そんなふうに話したところで、くーちゃんを人間だと思っているヒバリはきっと、信じないでしょう。



 だから、代わりに、

「ペンダント、大事なものだったの?」

 と、たずねました。



 ヒバリはしばし、考えるだけの時間をあけて、「いまはそう思います」と前置きます。



「でも、いまは、です。二十歳のころのわたしには、あれが大事だったなんて、少しも思えませんでした。二十歳のわたしにとって、おじいさまからもらったあのペンダントは、わたしを神宮寺につなぎとめるための、飼い犬にする首輪としか思えませんでした」



 ヒバリが言います。



「おじいさまは、遺言に、遺言以上の意味を込めていたのです。それは、神宮寺の家を追われて、路頭に迷っているときにわかりました」



 ヒバリは昔の自分を恨むように、ひとつ息をついて、



「おじいさまはきっと、わたしのことを、人からもらったものをずっと大事にしているような、心のきれいな女の子だと思っていたのでしょう。だから、おじいさまにしてみれば、遺言に書かれているものは、あってないような条件でしかなかったはずです。その条件を書いてしまったがために、そして、わたしがペンダントを失くしてしまったがために、おじいさまが想定しなかった事態になってしまった」



 いまさらですよね、と、ヒバリは笑います。



「何もかも失くした後でなければ、それがどれだけ大切だったのか、気づくことすらできない。わたしは愚かな人間です。莫大な遺産を無下にしたからではありません。大切な家族からもらったものを、ただの足かせとしか考えられなかった。浅はかなわたしは、物事を純粋に、素直に受け取ることができませんでした。歪んだ考えしかできなかった、あのころのわたしは、ほんとうに愚かだったと思います」



 違う、と、くーちゃんは言おうとしました。ヒバリは愚かじゃない。ヒバリが愚かな人間なら、そんなふうに自分の過去を向き合おうとするはずがない。そう言いたかったのに、かすれた喉は、やはり、細い風しか出せません。



 ヒバリが柔らかく、首を振ります。



「ですが、それは昔の話です。いまのわたしは、昔と違います」



 打って変わったように、ヒバリは明るい声で言います。



「いまはそれも、ひとつの縁だったと思うのです。生家での一件がなければ、わたしは、祖父江さんと会うことはありませんでした。箱入り娘として育てられたわたしは、外の世界で生きていく術を身に着けていませんでした。路頭に迷い、何もかも諦めて倒れたとき、祖父江さんが助けてくださいました。人の助けになるなんて情けない……二十歳のわたしは、そう思ったでしょう。でも、祖父江さんのおかげで、わたしは今日も生きています……それに、」



 ヒバリは向きを変え、薄い手のひらで、くーちゃんの頭を撫でました。



「こうして、くーちゃんにも会えました」

「え……?」

「くーちゃんだけではありません。ナルちゃんとも、タロウくんとも会えました。いろんなバイトをしてきて、いろんな人と出会えました。生家の箱入り娘のままでは、きっと出会えなかった人たちと、出会うことができました」



 ヒバリの手のひらは薄く、骨の硬さがありました。でも、冷たさは微塵もありません。あるのは、ただ、人間の温かさだけです。



「辛い過去をポジティブに捉えるなんて、間抜けに見えるかもしれません。でも、わたしは、くーちゃんたちに会えたことを、うれしく思います。心からそう思っています」



 くーちゃんは、耐えられなくて、布団で顔を覆いました。

 身じろぎして、ベッドのスプリングがきしみます。

 ヒバリはお腹の音と勘違いしたらしく、「少し待っていてください」と、部屋を出ていきました。ものの五分ほどで戻ってきます。布団に隠れていても、塩コショウの香りが漂ってきます。壁際のテーブルに、ヒバリはお皿と箸を置きました。



「こんなものしか作れませんけど、食べてください。いつもおいしそうに食べてくれて、ちょっとうれしかったんですよ」



 おやすみなさい、と、ヒバリは部屋を出ていきました。

 入れ替わるように、遠慮のない足音がやってきます——ナルちゃんです。



「泣けるねえ」

 と、酔っぱらっているようです。

「自分の人生をめちゃくちゃにした、仇だっていうのにさ。わたしだったら、十字架に張りつけて、丘の上に突き刺してやりたいって思うけどね」



 暗い部屋の中、ナルちゃんは壁に背中を預けて、ヒバリが置いていったもやし炒めを見つめます。



「ヒバリと会って長いけど、こんなことするやつとは、思ってなかった。ほら、ヒバリって、自分の人生で手一杯って感じじゃなかった? 家賃もまともに払えないし、毎日粗食の極みって感じでさ」

「……寝たいんだけど」

 震える声を振り絞って、ナルちゃんを追い払おうとします。

 ナルちゃんも、長居するつもりはないようでした。

「もやし炒めだけだと、喉乾くでしょ」

 と、何かの缶を置いて、部屋を出ていきました。



「愛……愛かあ……」



 と、ひとりつぶやいています。



 廊下の気配が消えてから、くーちゃんは布団を抜け出しました。壁際の机には、ヒバリが作ったもやし炒めと、ナルちゃんが置いていったチューハイが置いてあります。くーちゃんは唇を噛んで、箸を取り、もやし炒めをつかんで、口に運びました。



 涙があふれます。



 それでもかまわず食べました。よだれと、涙と、塩コショウの塩味が混ざって、口の中で不思議な味覚が生まれます。



 最後に、くーちゃんは手を合わせました。



「……ごちそう、さま、でし、た」



閲覧ありがとうございます!

次回もよろしくお願いしますm(__)m

内容が気に入れば、どうぞ、SNS等で広めてください。


*順次投稿していきます。

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