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<注意>第37回小説すばる新人賞 落選作品 を改稿したものです
十時過ぎ、でしょうか。
きいっと扉が開く音が聞こえて、くーちゃんはうっすらと目を開けました。誰かがまた、お見舞いに来たのでしょう。くーちゃんを起こさないようにすり足をしていますが、すでに目を覚ましているので、あまり意味はありません。
その人は、そっと、くーちゃんの顔を覗きました。
「起こしてしまいましたか」
ヒバリが申し訳なさそうに目を伏せます。
「起きてたから、いいわよ」
「……祖父江さんに聞きました。川に落ちたって」
無言で肯定します。
ヒバリは床に座り込んで、ベッドの縁に背中をあずけました。
「すいません、わたしのせいですよね」
「なんで?」
「もしかして、くーちゃん、ペンダントを探そうとしてくれたのかな、って」
そんなこと、少しも考えませんでした……いえ、いまとなっては、それもよくわかりません。川に落ちる前、くーちゃんは何を考えていたのでしょう。ヒバリが言ったように、自分がやってしまった過ちを取り返そうと、ペンダントを求めて飛び込んだのかもしれません。もしかしたら、ただ川面をのぞいていただけだったのかもしれません。いつかのヒバリのように……
くーちゃんの口がかすかに開きます。罪を告白する気でいました。
ヒバリのペンダントを取ったのはあたしだ。
あたしは天使で、天界にいるときにいたずらをした。
あんたはその被害者だ。
……と、そんなふうに話したところで、くーちゃんを人間だと思っているヒバリはきっと、信じないでしょう。
だから、代わりに、
「ペンダント、大事なものだったの?」
と、たずねました。
ヒバリはしばし、考えるだけの時間をあけて、「いまはそう思います」と前置きます。
「でも、いまは、です。二十歳のころのわたしには、あれが大事だったなんて、少しも思えませんでした。二十歳のわたしにとって、おじいさまからもらったあのペンダントは、わたしを神宮寺につなぎとめるための、飼い犬にする首輪としか思えませんでした」
ヒバリが言います。
「おじいさまは、遺言に、遺言以上の意味を込めていたのです。それは、神宮寺の家を追われて、路頭に迷っているときにわかりました」
ヒバリは昔の自分を恨むように、ひとつ息をついて、
「おじいさまはきっと、わたしのことを、人からもらったものをずっと大事にしているような、心のきれいな女の子だと思っていたのでしょう。だから、おじいさまにしてみれば、遺言に書かれているものは、あってないような条件でしかなかったはずです。その条件を書いてしまったがために、そして、わたしがペンダントを失くしてしまったがために、おじいさまが想定しなかった事態になってしまった」
いまさらですよね、と、ヒバリは笑います。
「何もかも失くした後でなければ、それがどれだけ大切だったのか、気づくことすらできない。わたしは愚かな人間です。莫大な遺産を無下にしたからではありません。大切な家族からもらったものを、ただの足かせとしか考えられなかった。浅はかなわたしは、物事を純粋に、素直に受け取ることができませんでした。歪んだ考えしかできなかった、あのころのわたしは、ほんとうに愚かだったと思います」
違う、と、くーちゃんは言おうとしました。ヒバリは愚かじゃない。ヒバリが愚かな人間なら、そんなふうに自分の過去を向き合おうとするはずがない。そう言いたかったのに、かすれた喉は、やはり、細い風しか出せません。
ヒバリが柔らかく、首を振ります。
「ですが、それは昔の話です。いまのわたしは、昔と違います」
打って変わったように、ヒバリは明るい声で言います。
「いまはそれも、ひとつの縁だったと思うのです。生家での一件がなければ、わたしは、祖父江さんと会うことはありませんでした。箱入り娘として育てられたわたしは、外の世界で生きていく術を身に着けていませんでした。路頭に迷い、何もかも諦めて倒れたとき、祖父江さんが助けてくださいました。人の助けになるなんて情けない……二十歳のわたしは、そう思ったでしょう。でも、祖父江さんのおかげで、わたしは今日も生きています……それに、」
ヒバリは向きを変え、薄い手のひらで、くーちゃんの頭を撫でました。
「こうして、くーちゃんにも会えました」
「え……?」
「くーちゃんだけではありません。ナルちゃんとも、タロウくんとも会えました。いろんなバイトをしてきて、いろんな人と出会えました。生家の箱入り娘のままでは、きっと出会えなかった人たちと、出会うことができました」
ヒバリの手のひらは薄く、骨の硬さがありました。でも、冷たさは微塵もありません。あるのは、ただ、人間の温かさだけです。
「辛い過去をポジティブに捉えるなんて、間抜けに見えるかもしれません。でも、わたしは、くーちゃんたちに会えたことを、うれしく思います。心からそう思っています」
くーちゃんは、耐えられなくて、布団で顔を覆いました。
身じろぎして、ベッドのスプリングがきしみます。
ヒバリはお腹の音と勘違いしたらしく、「少し待っていてください」と、部屋を出ていきました。ものの五分ほどで戻ってきます。布団に隠れていても、塩コショウの香りが漂ってきます。壁際のテーブルに、ヒバリはお皿と箸を置きました。
「こんなものしか作れませんけど、食べてください。いつもおいしそうに食べてくれて、ちょっとうれしかったんですよ」
おやすみなさい、と、ヒバリは部屋を出ていきました。
入れ替わるように、遠慮のない足音がやってきます——ナルちゃんです。
「泣けるねえ」
と、酔っぱらっているようです。
「自分の人生をめちゃくちゃにした、仇だっていうのにさ。わたしだったら、十字架に張りつけて、丘の上に突き刺してやりたいって思うけどね」
暗い部屋の中、ナルちゃんは壁に背中を預けて、ヒバリが置いていったもやし炒めを見つめます。
「ヒバリと会って長いけど、こんなことするやつとは、思ってなかった。ほら、ヒバリって、自分の人生で手一杯って感じじゃなかった? 家賃もまともに払えないし、毎日粗食の極みって感じでさ」
「……寝たいんだけど」
震える声を振り絞って、ナルちゃんを追い払おうとします。
ナルちゃんも、長居するつもりはないようでした。
「もやし炒めだけだと、喉乾くでしょ」
と、何かの缶を置いて、部屋を出ていきました。
「愛……愛かあ……」
と、ひとりつぶやいています。
廊下の気配が消えてから、くーちゃんは布団を抜け出しました。壁際の机には、ヒバリが作ったもやし炒めと、ナルちゃんが置いていったチューハイが置いてあります。くーちゃんは唇を噛んで、箸を取り、もやし炒めをつかんで、口に運びました。
涙があふれます。
それでもかまわず食べました。よだれと、涙と、塩コショウの塩味が混ざって、口の中で不思議な味覚が生まれます。
最後に、くーちゃんは手を合わせました。
「……ごちそう、さま、でし、た」
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