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<注意>第37回小説すばる新人賞 落選作品 を改稿したものです
丸一日仕事をしていないのに、くーちゃんは疲れ切っていました。目の奥がずんと重く、いますぐ目を閉じたいのに、瞼は開いたまま固まっています。時計は午後の四時を差しています。くーちゃんの意思より先に、身体が音を上げて、気を失ったのです。
耳を澄まします。
扉の向こう、廊下、階下……人の気配はしません。
くーちゃんは湿った服を着替えず、部屋を出ました。無意識のうちにすり足になって、こっそり、リビングをのぞきます。明かりはついていますが、祖父江さんの姿はありません。また耳を澄ますと、お風呂を洗っている音がします。
くーちゃんは逃げるように、ゲストハウスを飛び出しました。
いくら気温が上り調子とはいえ、冷えた風が湿った身体を軋ませます。くーちゃんは両腕を抱くようにして、坂道を下ります。
それで、いったい、どこに行けばいいのでしょう……?
通りは閑散としていました。ときおり通りかかる軽トラックのおかげで、町が人の存在を思い出したかのように、古びたエンジン音が反響します。が、それが町角を曲がって消えれば、さっきまで人がいたのが嘘のように——それどころか、くーちゃんさえいないみたいに——町の空気は冷え返ります。
そのうち、正面から小学生の集団がやってきました。騒がしそうに、音楽の授業で習った曲を合唱しています。どの声も高く、似たり寄ったりで、誰が歌っているのか判別できません。が、くーちゃんの耳には、セナとソラの声が混じっているように聞こえて、足がすくみます。
(逃げなきゃ……)
くーちゃんはわき道に飛び込みました。それがちょうど、旧庭神橋に続く小道で、くーちゃんは自然と、橋の上にやってきました。こそこそと背後を振り向きます。さっきの集団は、通り過ぎたようです。くーちゃんは肩を落として、欄干にもたれました。
人間を怖がるなんて、情けない。
ゲストハウスを出れば、幻影の声から逃げられると思っていました。でも無理でした。どこに逃げても、くーちゃんの良く知る三人の声は、どこまでも追いかけてきます。くーちゃんに逃げ道はありません。唯一の逃げ道は天界に帰ることでしょうが、大天使様の問いの答えが見つかっていない以上、望みはありません。
ぼうっと川面を見つめます。
夕暮れの川面に月はなく、ただ西日を照り返すばかり。
ヒバリは何を思って、この川面を見つめていたのでしょう。自らの過去を悔いていたのでしょうか。そうして見つめていれば、あの日失くしたペンダントが見つかると思っていたのでしょうか。あのとき、ヒバリが何を思っていたのか、くーちゃんにはわからない。何も知らなかったときのくーちゃんは、ヒバリが月に吸い込まれていくようにも、どこか遠い場所に消えていくようにも見えました。
くーちゃんの頭が、ぼうっと熱を帯びていきます。
(あのとき、あたし、あのペンダントを、どうしたんだっけ)
霧に包まれた記憶に手を伸ばします。
つむじ風を起こして人間の持ち物をかっさらう——それは他の人間にもやってきたことです。そのどれも、似たような終わり方にしていたように思います。人間の持ち物をかっさらって、それから……それから……そう、くーちゃんはそれを、たいてい、そこらへんに放り捨てていました。
芝生の上。
砂漠の砂の上。
大海原のド真ん中。
……おぼろげだった記憶が、かすかな形を成します……ヒバリのペンダントをかっさらったあと、たしか、近くの川に放り込んだような……
ぼんやりと歪んでいた視界が、くーちゃんの眼下に、さらさらと流れる川を映します。欄干に添えていた手に、さっきまで入らなかった力が戻ってきます。ぐっと力を籠めると、くーちゃんの軽い体がすんなりと持ち上がります。
声がします。
それが男の子の声だったと気づくころには、くーちゃんの身体は宙に傾いていました——自由落下——くーちゃんの頭が下になって、両足が上になります。
(大天使様に落とされたときも、こんな格好だったっけ……)
そんなのんきなことを考えた直後、くーちゃんの全身におそろしい冷たさが襲ってきました。息をしようと吸い込むと、空気ではなく川の水が入ってきて、おなかにあった空気が抜けていきます。服が水分を含んで重くなり、もがけどもがけど、沈む一方です。
だんだん、意識が遠くなっていきます。
そのうち、もがくのも疲れて、沈むのに任せました。
あっという間に、川底に背中がつきます。
ここは、どこ?
天界の湖から沈んだ先に地上があったなら、地上から沈んだ先にあるのは何?
見上げる川面に、陽ざしが白く揺れています。その日差しの向こうに、天界があるような気がして、くーちゃんは手を伸ばしました……なんだ、あたしが願ったとおり、天界につながる道は、ちゃんとあったんだ……
こぽっ、と、最後の空気が抜け、泡になって、溶けていきました。
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