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<注意>第37回小説すばる新人賞 落選作品 を改稿したものです
ヒバリはそう遠くには行っていませんでした。
くーちゃんが坂道を下りきると、よれよれの長そでの背中が、町のほうに向かっているのが見えました。夜の静かな空気の中、大声を出すのもはばかられます。くーちゃんは音を立てないように、ヒバリの後を追いました。
丸一日経てば、昨夜降り積もった雪もあらかた溶けていました。陽が照りにくい軒下には雪の小山がいくつも並んでいますが、通りの真ん中に雪はなく、灰色の石畳がのぞいています。格子窓からは家灯りが等間隔に漏れ、「こちらへ」と指し示すように、白と灰色の通りを照らしています。
ヒバリはその灯りに沿うように、石畳を歩いていきます。
暗い夜、ほのかな家灯り、それに照らされた幸の薄そうな後ろ姿。
くーちゃんの胸に不安がよぎります——目を離しちゃいけない——ひとたび目を離せば、ヒバリが消えていなくなってしまいそうな、そんな予感がしたのです。
やがて、ヒバリは旧庭神橋の真ん中で立ち止まりました。晴れた夜空には、大きな月が浮かんでいます——満月ではなく、右側から欠け始めています——最初、ヒバリは正面に浮かぶ月を見上げていました。古い木造の橋に立ち、銀色の月明かりを浴びるその姿は、息を呑むほど美しい。なんだか、ヒバリがそのまま、月に吸い込まれていきそうで……
ヒバリは月から視線を落とし、橋の下に流れている川面を見つめました——あまりに自然な動きで、くーちゃんは声を出せません——ヒバリは欄干に手を添えて、胸を欄干の端に当て、首から上を橋の外に投げ出して……
「ダメ!」
とっさに叫んでいました。そうでもしないと、ヒバリがほんとうに、月の光に吸い込まれそうな気がしたのです。
ヒバリが欄干から手を離し、くーちゃんのほうに向きます。
「どうしたんですか?」
と、不思議そうな声。
くーちゃんは大股で近づいて、
「あんた、なにしようとしてたの」
知らず、声が震えます。
ヒバリが言います。
「特に何も。ただ、景色を眺めていただけです」
ヒバリはまた、欄干に手を添えて、橋の下をのぞきます——落ち着いて見れば、たしかに、そこから飛び降りそうにも、まして月に吸い込まれていくようにも見えません——が、くーちゃんの不安は増すばかりで、何も言わず、自分から、ヒバリに身を寄せました。
「寒いのですか?」
「そんなとこ」
くーちゃんは、欄干の下にある格子の隙間から、川面を見下ろします。真っ黒な川面に、真っ白な月が浮かんでいます。さっきは頭上の月にヒバリが吸いまれていくのかと思いましたが、こうして見れば、眼下の月こそ、ヒバリを吸い込んでしまいそうです。さらさらと流れる川の音も、静かな夜にあって、ヒバリを誘っているようで……
落ち着かず、くーちゃんはたずねます。
「よく来るの?」
「そうですね、仕事終わりに、いつも来ます」
「橋が好きなの?」
「いいえ」
「空が好きなの?」
「そうではありません」
「川が好きなの?」
「そういうわけでもありません」
ヒバリがくーちゃんに向きます。
「どうして、そんなことを聞くのですか?」
まさか、月に吸い込まれそうだったから、なんて現実感のないことは聞けません。
「空、好きだから」
「くーちゃんが?」
「そう、あたし、空が好きなの。あんたも空が好きなら、仲間ができたと思えたのに」
ヒバリは「そうですか」と息をつき、夜空を見上げます。
「わたしも、空は好きですよ」
「さっき、そうじゃないって言ってなかった?」
「いえ、空は好きです——ここに来る目的が、空が好きだという理由にないだけで——もっと言えば、夜空より、真昼の空が好きです。目を細めないと見えないくらい、白と水色が照り返してくる青空が、わたしは好きです」
ヒバリは、まるでそこに真昼の空があるみたいに目を細めます。
「くーちゃんは、偉いですね」
とつぜん褒められて、くーちゃんは返事ができません。ヒバリ自身、くーちゃんの返事は期待していなかったようで、そのまま話し続けます。
「大変な身の上で、家族のところに帰れないのに、毎日毎日、祖父江さんのお手伝いが出来て」
「……やりたくてやってるんじゃない」
「それなら、もっとすごいです。やりたくないことをやれるというのは、素晴らしいことです。どういう意図であれ、それはつまり、誰かのために力を尽くしているということですから」
なんだか照れくさくて、くーちゃんはぷいっと顔を背けます。
「あんたは違うの?」
「わたし、ですか」
「コンビニで仕事してるじゃない。あんただって、いろんな人間に尽くしてるでしょ」
ああ、と、ヒバリは暗いため息を漏らします。
「わたしは、違うのです。わたしがやっているのは、仕事というより、むしろ——」
ヒバリは言いよどんで、けれど、はっきり口にしました。
「——罰です」
罰、という言葉に当てられて、くーちゃんはヒバリを見上げました。ヒバリの視線は、月の光を真っすぐに浴びてなお、夜の黒に溶けそうなほど翳っています。
ヒバリの罪を聞いてみたい。
でも、冬の夜の、静かな、しんみりとした空気の中、それをたずねるのは無粋なようにも思います。
「仲間ね」
と、くーちゃんは言います。
「あたしも、ここにいるのは、罰みたいなものだから」
慣れないことをしたせいか、なんだか鼻がむずがゆくなって、くしゃみが出ます。
ヒバリは、「帰りましょう」と、くーちゃんの背中を押しました。
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