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<注意>第37回小説すばる新人賞 落選作品 を改稿したものです
(いったい、どういうことだろう)
くーちゃんが目を覚ますと、時計の針は朝の八時を差していました。
昨日は夜の十時に眠りました。いつものように八時間寝たのなら、朝の六時ごろに目が覚めるはずです。それがどういうわけか、今朝は朝の八時に目を覚ましました。ふだんを思えば、二時間の寝坊です。
けして、寝過ごしたかったわけではありません。
くーちゃんは一度、朝の六時に目を覚ましました。が、これまたどういうわけか、いつもならなんとも感じない布団のなかが、天界のように心地よくて、布団から出ようと思えなかったのです。それでも布団から出ようとして、冬の寒さに震えて、また布団に潜り……気づけば二度寝していました。
なんて自堕落……この不調はおそらく、昨日、天使の力を使ったせいでしょう。
それからさらに三十分をかけて、くーちゃんはようやく布団を出る決心をつけました。
部屋の中はもちろん、廊下まで冬の寒さが広がっています。つい昨日まで、くーちゃんは廊下を裸足で歩いていました。いまは足先からくるぶしにかけて、フローリングの冷たさが染みてきます。
くーちゃんは両腕をさすりながらリビングに向かいます。
リビングにはすでに、暖房がかかっていました。床暖房もばっちりです。くーちゃんはほっと息をつき、ふと、キッチンの方に目を向けます。祖父江さんがいるのでしょうか。じゅうじゅうという音と、香ばしい香りが、リビングいっぱいに広がっています。
くーちゃんは挨拶だけはしておこうと、キッチンをのぞきました。
「……だれ?」
キッチンにいたのは、見知らぬ女性でした。
くーちゃんの声を聞いて、女性が振り向きます。
身長は祖父江さんくらい、しかし、祖父江さんよりもずっと線が細い。
ぼさぼさの黒髪は無造作に後ろで結ばれ、化粧っけのない顔と、覇気のない瞳があらわになっています。桃色の長そでもジャージのズボンはよれよれ。「幸の薄さ」を人間の皮膚でくるんだような身なりです。
女性は、右手に菜箸、左手にフライパンを持って、何かを炒めています。
彼女の目が、いま、くーちゃんに向きます。
「どなたですか?」
「あたしが聞いたんだけど」
「わたしですか? わたしは、ヒバリ。神宮寺、ヒバリです」
「じんぐーじ?」
「神様のいるお宮なお寺、で、神宮寺。名前はカタカナで、ヒバリ」
とんでもない名前だ、と思いました。お宮だったりお寺だったり、なんだかあべこべな感じがしますし、なにより名前に「神」様が入っている……とんでもないだけでなく、えらそうな名前でもあるようです。
「それで、あなたは?」
「あたしはくーちゃん」
「くーちゃん? くー、が名前ですか?」
人間はみんなそこに引っかかるのでしょうか。
「あたしが名づけ親じゃないから知らない。好きに呼んで」
「では、くーちゃん、と呼ばせていただきます」
妙にかしこまった口調で言い、女性はフライパンに目を落とします。
何を作っているのか気になって、くーちゃんはヒバリに近寄ります。キッチンには、透明なナイロン袋と、塩コショウのボトルが置いてありました。ナイロン袋には、さっきまで何かが入っていたようです、その中身はいま、フライパンの上で、ごま油といっしょに炒められています。
ヒバリが言います。
「もやし炒めです」
「なにそれ」
「え、なんでしょう……もやしを炒めるから、もやし炒めです」
「食べるの?」
「そうですね、食べます」
天界から地上を見ていたおかげで、くーちゃんは人間の食べ物について、ほんの少し知識があります。朝ごはんについて言えば、地域によって違いますが、たいていお米やパン、良いところではお肉が並んでいたりするはずです。
くーちゃんは目を細めて、フライパンを見ました。弱火のコンロで熱されたフライパンの上で、細長く半透明なものがパチパチと弾けています。塩コショウが振ってあるようで、ところどころ黒い斑点が見えます。このヒバリという人間は、朝からもやし炒めなるもの口にするらしい……修行でもしているのでしょうか。
ぼんやりとした会話に、ヒバリは合点がいったような顔をして、くーちゃんを見下ろします。
「食べますか?」
「あたしが? これを?」
「いりませんか?」
「天使はお腹が空かないの。こんなのいらない」
くーちゃんは正直に言ったつもりですが、それを人間がどう捉えるかは、人間次第です。ヒバリは、くーちゃんが強がりな小娘に思えたらしく(もちろん口にはしません)、プラスチックの平皿を二枚用意して、もやし炒めを等分にしてよそいました。
ヒバリはもやし炒めをテーブルに運び、水の入ったグラスと割りばしを並べます。
「どうぞ」
と、くーちゃんに対面の席を促します。
「よくわからないけど、貢物ってことでいい?」
「はい、召し上がってください」
それなら仕方ありません。おなかは空いていませんが、人間から献上されたものを、天使が拒むものでもないでしょう。
くーちゃんが席に着いたのを見て、ヒバリは手を合わせ、「いただきます」と言います。
手を合わせるようすが、高貴なものに祈るようにも見えて、なんとなく、くーちゃんも真似をしました。
ヒバリは左手で皿を持ち、右手で器用に箸を使います。
くーちゃんも箸を持ちますが、ぎゅっと握りしめているせいで、ヒバリのようにもやしをつかめません。しびれを切らして、くーちゃんは皿を置き、前かがみになり、口を皿に近づけて——その格好こそあまり褒められたものではないのですが——もやし炒めをかきこみました。
「どうですか?」と、ヒバリがたずねます。
くーちゃんは返事ができません。もやしはしなびていましたが、それでも、噛めば噛むほど、未知のしゃきしゃき感が口いっぱいに広がります。ゴマ油の香りや、塩コショウの塩気と香味も、感じたことのない味覚です。
というより、くーちゃんにとって、地上でのはじめての食事がこれですから、何もかも初体験なのは当たり前です。そんな当たり前に、くーちゃんはとにかく心を動かされて、黙々ともやし炒めを頬ばりました。
ヒバリはそれを満足そうに見つめて、自分も、もやし炒めを食べ始めます。
「ごちそうさまでした」
ヒバリが手を合わせるのを見て、くーちゃんも手を合わせました。
「これはなに?」
「食後の挨拶です」
「なんのために、こんなことするの?」
「そうですね、」
ヒバリは少し考えて、
「感謝のため、です。食材を作ってくださった農家の方や、売ってくださった店員さんや、ゲストハウスに住まわせてくださった祖父江さんや、もっといろんなことに、感謝を示すため、です」
くーちゃんは手を合わせながら、誰に感謝しようと考えました——どこにいるかもわからない神様にはもう頼りません。大天使様は、いつまでもくーちゃんを天界に帰してくれないので、論外。祖父江さんあたりに感謝するのが妥当かな——というわけで、祖父江さんを思い浮かべつつ、「ごちそうさま」と言いました。
ヒバリがたずねます。
「新しい利用者の方ですか?」
「そんなところ。二階の部屋に住んでて——」
「ああ」
ヒバリは納得したようにうなずき、
「祖父江さんのご親戚とは、くーちゃんのことだったんですね……心中、お察しします」
「祖父江さんから、あたしのこと、どう聞いてるの?」
ヒバリは、口にしていいのかためらう素振りを見せて、
「お父様の借金で、火の車になって、一家離散されたとか……それで、あなたのお母様が、あなただけでも助けたいとのことで、遠縁の祖父江さんを頼って……」
言いつつ、ヒバリは口元に手を当てて、ぽろぽろと涙を流し出しました。
「わたし、自分ばかりが不幸だと思ってました。けど、くーちゃんのほうが、ずっと大変ですよね。困ったことがあれば、いつでも頼ってください」
ヒバリは宿泊棟に向かい、リビングに戻ってくると、くーちゃんの手に何かをにぎらせました。
「手持ちが少ないので、これくらいしか出せませんが、足しにしてください。お腹が空いたら、いつでも言ってください。もやし炒めなら、いくらでも作れますから」
そうして、ヒバリは仕事があるからと、大きなエナメルバッグを提げて、ゲストハウスを出ていきました。
リビングでひとり、くーちゃんは手のひらを開きます——十円玉が三枚——どう使えばいいのか、何と言っていいのやら、くーちゃんにはさっぱりです。
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